万里の長城をみた。
まず、長城についての概要を、辞典から引き写し、後半に感想をのべたい。
■辞典から
長城は、延長2700キロにおよび、秦の始皇帝のころから建築したという。
構造は、外壁は黄土を日干しレンガとし、それを焼いたものテン…とかいうらしい。 内部は、粘土をツキ固めたものという。
万里の長城にはいろいろな意味があった。
一般的には,農耕地帯と遊牧地帯をわける境界線であるとか,遊牧民族の侵入を防ぐための設備であるとかいわれているが,最も重要なのは,やはり防衛線としての軍事的意味であった。
しかし実際的には,期待されたほどの効果を発揮することなく,北方民族の勢力が強くなると,彼らはどの王朝の時代でも簡単に長城を越えて中国の農耕地帯に侵入し,華北の農村は大きな被害を受けるのが常態であった。
長城はほとんど役に立たず,漢人には堅固な防備があるという安心感を与える程度のもの,北方民族に対しては,その巨大な建築構造によって心理的な威圧感を与える程度のものであった。
さらに平和な時代には,長城はまったく無用の長物であった。漢人は長城線を越え,商業的利益を求め,あるいは農地を探して北に向かった。遊牧民族も生活必需品の入手を目的に関口をくぐった。
▲実際に見ての感想
巨大な構造物であり、まず、これを作った人間の数とその労働力の膨大さを感じた。
次に思ったのは、農耕民族の遊牧民族に対する「恐怖心」のようなものを感じた。
これほど、遊牧民族が恐ろしいのか…と。
しかし、それならば…わざわざ、長城を連続した構造物とする必要があったのだろうか。いかに遊牧民族であろうと、峻険な山岳部を馬にのって襲ってくるだろうか。
むしろ、幹線部分というか、襲ってくるルートにのみ構造物を作り、兵などもそこに重点的に配備するほうが効率的ではないか。
つまり、この構造物の計画を軍事の専門家が立案したのではないのだろう。
上掲の辞典からの引用のように、ほとんど、無用の長物であったという。
→つまり、これは科挙制度の悪い面が出たのではないか。
科挙制度というものは、優秀な人間を集めるというか、選抜することには意味がある。
しかし、その試験の内容は文系であり、少なくともこういう工学的な知識とは無縁であろう。
しかし、一国の宰相というか、政治のトップはこのような人がなるから、工学的な知識のないまま、頭の中で勝手に発想すると、ここらへんに防護柵をずっとつくればいいじゃないか…そんな発想なのではないか。
後は、技術をもったものが、そんな現実離れした計画を農奴というか被征服者を人間扱いせずに工事に使って完成させたものであろう。工事では恐らく多数に人間が死んだのであろう。
故司馬遼太郎さんは、搾取という言葉を使っておられたが、なにか気が狂った人間が、奴隷を使い潰すように酷使しないと、あの山の斜面に石造りのあれだけ丁寧な石組みはできない。
やはり、どこか日本人からみると尺度が違うというか、異民族を征服するということはこういうことか…と感じる。
征服された方はたまったものではあるまい。そこから逃げようとする。この逃げおおせた人達が客家とよばれる人になるのだろう。
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はじめは、秦の時代から…という。
秋の収穫期になれば襲ってくる遊牧民族に対して、せめてもの抵抗であったのだろうが、単なる恐怖心からだけでなく、なにかもっと政治的な原因があったのではないか…という疑念をもつ。

上の写真は秦代のもの…という。ほんとに石垣状のものだったことが分かる
筆者は、奴隷として働かせた労働者の抹殺…数を減らすため…と感じたのだがどうだろうか。
どのような構造物か画像を示そう。

これだけの石組みにするためにはどれだけの労働と時間を要することか。
どのように、誰を使って、これだけのものを作り上げることができるのか。
そこになにか無理があるような気がするのだが…。
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