■トプカプ宮殿 …



□トルコ、イスタンブールにオスマントルコの居城であったトプカプ宮殿というものがある。
 オスマントルコは、長期間に亘る王朝であったが、トルコ民族というものが遊牧民族という性質から、その宮殿は驚く程簡素だ。


□まず、歴史から押さえよう。

 Topkap? Saray?)は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。
 イスタンブル旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。

 宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されているが、15世紀に建設されて以来増改築を繰り返した。


 

 
メフメト2世が、1460年代頃造営を開始し、1478年頃までに完成した。

 メフメト2世がここに居を定めてからは、1453年にコンスタンティノープルを征服して以来の宮殿が「旧宮殿」と呼ばれるようになったのに対して「新宮殿」と呼ばれ、またイスタンブルに営まれた多くの宮殿のうちの正宮殿として「帝王の宮殿」とも呼ばれた。

 現在使われているトプカプ宮殿の名は、19世紀にこの宮殿から皇帝が去った後、トプカプ宮殿の丘がある岬の先端にある「大砲の門」(トルコ語:トプカプ)にちなんで呼ばれるようになった。

 宮殿は君主の住居であると同時に、オスマン帝国の行政の中心地として機能した。

 17世紀中頃に大宰相の執務所と書記官僚の文書行政機構が大宰相公邸である大宰相府に移ると、宮殿はオスマン帝国の最高政務機関としての実質を失った。

 その後も、トプカプ宮殿は依然として皇宮であり、帝国の儀礼と公式行事の中枢であったが、1853年に宮廷が西洋風のドルマバフチェ宮殿に移ってからは放置され、荒廃した。

 トルコ共和国は、1924年にトプカプ宮殿を博物館とし、修復して一般の人々の見学に開放した。


□もう少し画像を。
 海側からみたトプカプ宮殿。




□宮殿内部






□構造についての説明(続き)
 
トプカプ宮殿は、大きな建物を持たず比較的小さな建物と部屋が連なり、また数多くの庭園と離れを持つ建造物群である。

 このことから、トルコ人の中央アジアの遊牧民的な伝統に基づいた宮殿である、と説明されることもある。

 宮殿のある丘は、古代ビュザンティオンのアクロポリスのあった場所にあたる。
 宮殿の外壁はこの丘を大きく囲み、外壁内の総面積は約70万m2ほどの面積である。



□まとめ、感想など

 造られたのが、15世紀半ば、日本で言えば室町時代にあたろう。日本の金閣、銀閣がつくられた時代に対応しているのかもしれない。

 トルコ民族は、もともと中央アジアの草原に居住する遊牧民族である。中国と争い、西へ西へと遊牧してきてこのアナトリア半島に居を定めた人達だ。

 アナトリア半島とはどのようなところか、画像を示したい。



 

 ⇒緩い勾配の畑と荒涼たる原野?なのだろう。樹木というか森林は殆ど存在しない。
 かっては森林が存在していたのだろうが、この数千年の人間の手により、なくなったものであろう。

 さすがに、海に近づくと樹木が多くなるようだった。

 ⇒トプカプ宮殿に居住する王様は、このような土地に暮らす人々の上に君臨していた。






□蛇足
 トルコの首都はアンカラ(人口約350万人)というアナトリア半島中央部にある都市だ。
 アンカラに近づくと、斜面を覆ってスラム街がみえる。
 下の画像は、夕日に照らされて斜面が赤く見える。樹木も殆どなく、異様な風景だ。

 



 ⇒トルコは、現在、人口7千万人、1人当たりのgdp が9000ドルくらい。
 農村部の荒涼さをみると、都市部に集まらなくては食べていけないということだろう。