■先日、富山県黒部、立山を訪れた。
黒部ダムを見たのだが、昭和38年の完成とある。
う〜んと思った。
確かに自分自身で経験した年月ではあるのだが、完成時点で敗戦後20年も経過していない。
調査などを考えれば、昭和20年代半ばからとりかかっているのだろう。
日本の新幹線とこの上掲の画像にある「黒部ダム」というものは、なにか「早過ぎないか」と思う。
(普通の国家において、戦争で焦土とされて20年という時間を経過せずに、新幹線とか黒部ダムとか作れるものだろうか)
当然、技術者が優秀なことは分かる。
単に技術者だけでなく、その上司とか、その計画を支持した国とか…なにかそこらあたりに日本人のもつ「凄(すご)み」のようなものを感ずる。
(これを自画自賛ととられると心外だ。そうではなくて、ウヌボレでもなくハッタリでもなく…できるだけ虚飾を取り去った、ありのままを表現したい)
□まず、Wikipedia で全体像を把握したい。
黒部ダム(くろべダム)は、富山県中新川郡立山町、黒部川水系黒部川に建設されたダムである。
ダムに貯えられた水を利用している発電所が黒部川第四発電所(黒四)であることから、俗に黒四ダム(くろよんダム)とも呼ばれることがあるが、関西電力では当ダムはあくまでも「黒部ダム」であるとしている。
黒部ダムは、富山県東部の黒部川上流に建設されたアーチ式コンクリートダム。
発電に利用する水を確保することを主目的として関西電力によって建設された。
ダムの高さ(堤高)は186メートルで日本一を誇り、現在でも破られていない。
総貯水容量は約2億トンで北陸地方で屈指の黒部湖(くろべこ)を形成する。
日本を代表するダムのひとつである。
総工費は建設当時の費用で513億円。
これは当時の関西電力資本金の5倍という金額である。作業員延べ人数は1000万人を超え、
工事期間中の転落やトラック・トロッコなどによる交通事故等による殉職者は171人で、いかにダム建設工事が苦難を極めたかがうかがえる。
完成直後の1963年には、NHK総合テレビジョンの技術者が放送用機材と中継用機器をダムまで持ち込み、ヘリコプターによる空中撮影も交え、鈴木健二アナウンサーの司会により生中継放送を行った。
また、1968年には、三船プロ製作の映画『黒部の太陽』(主演:三船敏郎、石原裕次郎)において、黒部ダム建設の物語が描かれている。
ダム観光施設の運営は、関西電力関電アメニックスくろよん観光事業部が行っている。
黒部ダムが建設された地点は黒部川の水量も多く、水力発電所設置に適した場所であることは大正時代から知られていた。
ただ、第二次世界大戦などもあり、黒部川の開発は下流の仙人谷ダムおよび黒部第三発電所にとどまっていた。
戦後、高度成長期を迎えると電力需給がひっ迫し、関西電力の代表取締役(当時)太田垣士郎は1956年、戦前に調査(一割強程度)・計画・設計は実施したものの、開戦以降お蔵入りとなっていた黒部ダム建設事業を急遽たちあげた。
それは、同社の社運をかけた一世一代の大規模プロジェクトであり、近畿(関西)地方への電力供給ひいては経済活動の命運がかかっていた。
黒部ダム建設にあたっては工区を5つに分割し、それぞれに異なる建設会社が請け負った。
第1工区・・・間組
黒部ダム、取水口、導水トンネル、大町トンネル(現・関電トンネル)、御前沢渓流取水工事
なお、ダム工事総括責任者は間組の中村精である。
第2工区・・・鹿島建設
骨材製造工事
第3工区・・・熊谷組
関電トンネル、黒部トンネル、導水路トンネル工事
第4工区・・・佐藤工業
黒部トンネル、導水路トンネル、調圧水槽、トラムウェイ・ロープウェイ工事
第5工区・・・大成建設
水圧鉄管路、インクライン、黒四発電所、変電所開閉所、放水路、上部軌道トラムウェイ・ロープウェイ工事
黒部ダム建設工事現場はあまりにも奥地であり、初期の工事は建設材料を徒歩や馬、ヘリコプターで輸送するというもので、作業ははかどらず困難を極めた。
このため、ダム予定地まで大町トンネル(現在の関電トンネル)を掘ることを決める。
しかし、破砕帯から大量の冷水が噴出し、死者が多数出る大変な難工事となった。
別に水抜きトンネルを掘り、薬剤とコンクリートで固めながら(いわゆるグラウチング)掘り進めるという、当時では最新鋭の技術が導入され、トンネルは貫通し、工期が短縮された。

geogle earth から画像を拾ってみた。
中央の青い部分が黒部湖を推定される。 どれだけ、困難な場所にダムが建設されたか分かる。
□地図としても掲げよう。

□黒部湖側から

□新聞記事で、この黒部ダムをとりあげていた。筆者の気になる部分を抜書きしたい。
□黒四は正式名称を「黒部川第四発電所建設工事」という。
堆積160万立方メートルの黒部ダム建設に必要な資材の輸送路として計画されたのが富山県黒部渓谷のダム建設地と長野県大町市を結ぶ全長5430.6mの大町トンネルだ。
□56年8月6日、JR信濃大町駅から北西に18km離れた扇沢で工事が始る。
1600mほど掘り進んだ57年4月20日ごろ、岩盤が柔らかくなり、水がにじみ出た。同5月1日正午ごろ、切り羽が盛り上がった。
□扇沢の入り口から1691mの地点で破砕帯にぶっつかった。
断層に沿ってできた軟弱な岩盤の間にたまった地下水が1分間にドラム缶240本分も吹き出した。
水圧は1平方メートル当たり42kg。
作業員を軽々と吹き飛ばす。穴にダイナマイトをいれても水圧で押し戻される。
→なぁ、水を抜こう。水の量が無限ということはないんだ。
□7月から2カ月かけて掘った水抜きトンネルは10本(総延長499m)、ボーリングは124本(同2898m)。岩盤を固める薬液の注入も効いて水の量は9月16日に毎秒36リットルに減った。
□12月2日、扇沢に入り口から1762mの地点で固い岩盤に突き当たった。
約80mの破砕帯を突破するまでに216日が経過していた。
■黒部ダムの概要が記載してあった。
Wikipedia と一部重複するが、このダム工事の意味を把握するために、抜書きしたい。
□黒部川水系が水力発電の適地であることは早くから分かっていた。だが周辺の山々は険しく、川の両岸は断崖がつづいているために手付かずだった。
□初めて事業化に乗り出したのは高峰譲吉博士。1918年に黒部川における水利権を申請した。だが、日の目を見ず、水利権は日本電力に移る。
□27年に柳河原発電所が完成した。第二次大戦後の電力再編で誕生した関西電力が水利権を継承し、黒部川第二発電所、同第三発電所を完成させた。
水力電源の開発を急ピッチで進めたのと、有望な地点の権益が電源開発に移った経緯から関電に残された大規模水力発電の適地は黒部ダムだけになった。
□当初計画は、自重で水圧を受け止める重力式ダムを採用していたが、関電はアーチ式ダムに変更した。
水圧がダム本体を伝って両岸の岩盤にかかる仕組みで薄くできるからだ。
□黒部ダムは体積が160万立方メートルだが、重力式だと260万立方メートル必要で、1.6倍に増える。
□セメントだけで37万2千トンを要した黒部ダムの高さは186m、総貯水量は約2億立方メートルで黒部川第四発電所の最大出力は33万5千キロワットだ。
□黒部ダム完成で川に一定の水が常時流れるようになり、黒部川水系の発電所の稼働率が向上した。

■まとめ
昭和30年代という時は、日本が高度成長期に入りかけ、半ば以降は年率10数%という成長を続けた時代でもある。
丁度、大正生まれ、昭和一桁の人達が壮年であり、また壮年になろうとしたタイミングでもあったろう。
十数年前に、日本は惨憺たる敗戦の苦しみを味わっていた。
戦争で生き残ったという幸運を、または共に戦った戦死者に対して負い目を感じていたのかもしれない。
そういう人達が中心となってこの工事を完成させたのだ。
日本人というものが戦争というものをどのように考えていたか、推測のつきそうな…そんな行動というか実践ではあるまいか。
■追記
黒部ダムの工事は、昭和30年代初めころになされている。
改めて、概要を押さえたかったのは、中国で行われている揚子江中流域での「三峡ダム」との比較である。
黒部ダムは昭和30年代初めとはいえ、品質管理、地質調査などもキッチリなされている。
それに対して、現在工事が行なわれている「三峡ダム」ではいかにも杜撰な工事がなされていると聞いた。
日本がそれこそ50年前にしたことが、中国では今でもなされていないのか…と。
□旅の雑誌をみていると、黒部ダムが紹介されていた。
秋の紅葉のシーズンもなかなかだなぁ。

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