■鹿児島  --西郷隆盛を巡る人々



■鹿児島中央駅から東へ少しいくと、甲突川という河に当たる。
 その東側に「鍛冶屋町」という地名のところがある。
 それが上の地図だ。--ピントがあっていなくてよみづらくなった。なお、南北が逆になっている。

 ただ、この鍛冶屋町周辺で生まれた人々の「名前」をみて頂きたい。
 西郷隆盛、村田新八、山本権兵衛、大久保利通、東郷平八郎等など。
 幕末 → 明治維新 →明治時代 に活躍した人々の名前がそこにある。

 えっ、西郷さんが、そこらの有象無象をひっぱりあげただけだろうって。
 そんなことはない。
 それぞれ、実力も能力もある人々だった。
 なぜ、こんな狭い範囲にこれだけの人材を輩出しえたのか--そんなことに疑問をもたないか。




 上の図は、西郷さんの生誕地の周辺だ。楠の植えてある部分。

 なんということのない、普通の場所だ。
 場所の問題ではない、秘密は「教育のありかた」であろう。→郷中(ごじゅう)というものにぶっつかる。


 ウイキペディアから。

 郷中(ごじゅう)は、薩摩藩の武士階級子弟の教育法。類似するものに会津藩の「什」がある。

 郷中の起源は島津義弘によるとされている。
 また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。
 薬丸自顕流が体育・思想教育として用いられたのは有名である。

 安永2年(1773年)に藩校・造士館および武芸稽古場である演武館が創設されると、造士館・演武館以外の場における武術教授や郷中における集団的活動は禁止された。
 幕末に鎌田正純が郷中教育を活性化し、実際に西田方郷中の士風を刷新した。

 正純は、藩意の下、士風粛正の手段として文武を奨励し、剣術の稽古を出席制で行った。
 明治維新で武士階級は消滅したが、舎は存続した。
 現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっている。


 武道が第一である。
 武士道の本義を油断なく実践せよ

 用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな
 何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である

 仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ
 グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである

 嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし
 忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である

 山坂を歩いて体を鍛えよ
 髪型や、外見に凝ったりすることが二才(薩摩の若者)なのではない。
 万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である。

 この事は部外者には判らぬものである
 これらはすべて厳重に守らなくてはならない。
 背けば二才と呼ぶ資格はなく、軍神にかけ、武運尽き果てることは疑いがない。

 その他
 負けるな
 弱いものいじめをするな
 たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
 金銭欲・利欲をもっとも卑しむべきこと 

 4-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を

 小稚児(こちご、6-10歳)
 長稚児(おせちご、11-15歳)
 二才(にせ、15-25歳)
 長老(おせんし、妻帯した先輩)
の4つのグループに編成したもの。

 それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。
 郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだ。



 →どこか日本人ぽくない感じがする。
 海洋民族的な、南方から渡ってきた--そんな「やり方」だと思える。
 →このようなシステムがあり、そのトップが西郷さんだった--ということに、上の地図の意味があるのだろう。





 上が大久保利通の生まれた場所--中央に碑が見える。



 ただ、教育だけではないのだろうな。
 1600年の関が原の戦いでは、この鹿児島から関ヶ原まで一千人を越える兵士達が、歩いてあるいは駆けてはせ参じている。
 1600年という年代を考えてみれば、薩摩から歩いて関が原までいく--というのは、途轍もない旅行であろう。
 その狂おしさ--に薩摩人の「骨格」があるよな気がする。