■伊部   いんべ  備前焼 



        ※画像は、登り窯の跡 江戸時代のもののようだ。


□岡山県、備前焼の里(岡山県備前市 JR赤穂線伊部駅付近)を訪ねた。

 6年位前にいったのだが、その時よりも寂れている感じがした。

 恐らく、その原因は「備前焼」という焼き物自体の性格にあると思える。


 →地場産業というものが、段々駄目になっていくのを見るのは辛い。

  そのあたり、画像を示しながら、感想をのべたい。


□備前焼について、概略を押さえよう。

□備前焼とは

 備前焼は、釉薬を一切かけず、絵付けもせず、ただ陶土そのままを形作り、窯に入れて焼いただけのもの。

 土の味が直接現れているものと言う事が出来る。

 しかし、それは単に偶然に出来上がったものではなく、一塊の土から幾多の手順を経、長い時間をかけて丹念に作られた陶土が、千数百度の炎にあおられ、さまざまの変化を受けた自然の姿である。


□備前焼の歴史

 備前焼の歴史は古く、現在の岡山県邑久郡一帯で古墳時代より須恵 器の生産を営んでいた工人たちが、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、熊山のふもと備前の地で生活用器の碗、皿、盤や瓦の生産を始めたのがその始まりと言われる。

 鎌倉時代から室町時代にかけては、山土を使用した壷・擂鉢等が多 く作られるようになり、またこの頃から備前焼特有の赤褐色の焼肌が出てくる。

 ところが室町時代後期になると、山土に変わって田土が使用され、ロクロが用いられ、量産が出来るようになり、半地上式の穴窯が作られるようになった。

 そして各地の窯は統合され、南・北・西に大規模な共同窯(大釜)が築かれ、窯元六姓(木村・森・頓宮・寺見・大饗・金重)による独占的生産が行われる。

 一方器種においても、日常雑器の他に、茶道の流行による茶道器が作られるようになる。

 これら大窯による生産は、江戸時代末期まで続く。

 江戸時代も中期に入ると、備前焼は藩の保護もあって全国に普及していった。

 しかし、末期に至ると、唐津や瀬戸において陶磁器の生産が行われるようになり、次第に備前焼は圧迫された。

 近代の備前焼、特に明治から昭和初期に至る時期は昏迷の時代であった。

 そのようなときに地味な努力はされ、個人釜が築かれる。
 備前焼だけでは成り立たないため、土管や耐火煉瓦の生産も行われる。

 衰退した備前焼を現在の繁栄に導くきっかけを作ったのが故金重陶陽であり、それを継起に多くの人々が努力を重ね、今日の備前焼を作ったのである。




 
     ※画像は、メインロードから山側にはいぅた付近  煙突は、備前焼を焼く窯。


 
□まとめ、感想など

 日曜日だったのだが、少し、寒くて人通りもなかった。

 様々な備前焼というものをみながら、どう利用できるものか…と考えていた。

 筆者には、花器、オブジェ、壁材 …というようなものしか思いつかなかった。






 通常の人には、花器、上の画像のような使い方しかないなぁ…と思える。

 食器などでは、数点ぐらいあってもいいが、大量には家庭では不要だろう。

 普遍性、汎用性がないとも言える。

 う〜ん、花器なら花のあでやかさをより引き立てる役目を果たすし…

 ならば、その汎用性のなさ…を逆手にとって、花器としてどれだけのものが作れるのかというところに力を注ぐべきでは…と感じた。

 言わば、信楽焼のタヌキの置物のように、大小様々な花器をもっと前面に押し出すべきではあるまいか。