■ブラジルの日系人


 
■始めに。

 ブラジルの日系人の記事があった。
 長文なので、筆者が適当に抜粋し、末尾に感想を述べたい。


「日系人からの脱皮 ―新しいアイデンティティとしてのニッケイ―」      小嶋 茂

ブラジルにおける日系人のイメージ


 1997年、ブラジルでは州都の市長として日系人では初めて、パラナ州の州都クリチーバにカシオ・タニグチが選出された。

  同市長としては初めて、連続二期を務める。

  しかし、市長選挙立候補当時タニグチは、日系コミュニティにお いてその存在がほとんど知られていなかった。

 一方、タニグチの選挙戦では、タニグチが日系人であることを はっきりと意識した選挙戦略がとられていた。


□ジャポネース・ガランチード(信頼できる日本人)とオーリョス・プシャードス(垂れた細い目)

 
タニグチの選挙運動では、ガランチードとオーリョス・プシャードスがそのキーワードとして随所に見られた。

 ジャポネース・ガラン チードとは、ポルトガル語表現で、直訳すれば「保証された日本人」ということである。

 意味するところは、要する に日本人であれば信頼できる、信用するに値するということになる。

 これはブラジルに渡った日本人移民である一世たちが、異国の地で苦労を重ねながらも誠実 に働き、その勤勉さとくに農業分野における貢献を認められたものである。

 ブラジル人のあいだで勝ち取った日本人移民に対する肯定的評価を 象徴する言葉である。



□このジャポネース・ガランチードが、日本人移民およびその子孫(以下、日系人)に関する内面的特徴を表現する言葉だとすれば、オーリョス・ プシャードスは日系人の外面的特徴を代表する言葉だといえる。

 オーリョス・プシャードスは直訳で「引っ張られた目」の意味であるが、欧米人と比べて日本人 の目が垂れぎみで細いことから、その外面的特徴をさしたものである。

 両手で目尻を下に引っ張ると日本人の目のようになる、というわけだ。  

 このジャポネース・ガランチードの ジャポネースを省略した「ガランチード」と「オーリョス・プシャードス」は、言ってみればブラジルにおける日系人の代名詞である。

 タニグチの選挙戦では、 このガランチードが「信頼できる日本人」と「保証付き」をかねる言葉として多用され、その顔を見れば一目瞭然であるにもかかわらず、選挙放送でも両手で目尻を横に引っぱる動作を示して、オーリョス・プシャードス、つまり日系人であることを強調していたのである。

 言い換えれば、タニグチが信頼に値する有能な 官吏であり、誠実で働き者であることを強くアピールしていたことになる。


□ニセイ(二世)と日系人

 
タニグチはいわゆるニセイである。

 ポルトガル語のニセイ(nissei)という言葉は、今でこそ第二世代つまり二世で あることが多くのブラジル人にも浸透している。

 しかし以前は、ニセイが日系人を意味するものとしていたブラジル 人もおおぜいいた。

 現在ではニセイだけではなく、イッ セイやサンセイといった表現もある程度理解されるようになり、ブラジル人の口からもそうした表現がよく聞かれるようになった。



2.ジャポネースの変遷

 
日系人はブラジルにおいてどのように見られてきたか、また日系人自身は日系であることをどのように受け取ってきたか。

 一九八〇年代当初、日系ブラジル人の約八割が存在するサンパウロ州やパラナ州、この日系人口が集中している二州以外のブラジル各地に足を踏み入れると、日本人 や日系人は「シネース(中国人)!」と囃したてられたり呼ばれたりすることが起こった。

 好奇なものに対する関心から、あるいはからかい半分によるものがほとんどだが、なぜシネースなのか、その理由は分からない。

 そう囃し立てていたブラジル人にとっては、中国人も日 本人も同じアジア系であることに変わりはなく、その区別すら注目に値しないか、そもそも知識として持ち合わせていなかったからだと思われる。




□ジャポネース、ジャッパそしてニホンジン 

 
では中国人と日本人は異なる国民だと理解している人びとからは、どのように呼ばれてきたのだろうか。

 ポルトガル語でジャポネースは日本人の 意味になるが、すでに述べてきたように、ブラジルにおいては日系人もブラジル人から一般的にジャポネースと呼ばれている。

 ジャポネースの派生語であ り、侮蔑的な意味を込めたジャッパという表現も耳にすることがあった。

 北米においてジャップという表現が存在するように、蔑みの言葉である。

 そして、ジャポネースと呼ばれることが普通でも、一部のブラジル人からあるいは一定の契機に、蔑視的な意味合いを込めてジャッパは使われた。

 とく に日系人がコロニアと呼ばれる日系集団社会に閉じこもり、ホスト社会から見えにくい異分子集団として捉えられていた時代には、嘲笑の対象としてこのような 呼称がたびたび使われたのである。


 ブラジルにおいては、日本人あるいは日系人が均質的で画一的なものとして受け取られることが多かった。

 「顔のない日本人」として理解されていた。

 その典型的な俗言が、「ジャポネース・エー・トゥード・イグアル(ジャポネースはみんな同じ)」、「ウン・カミニャオン・デ・ジャポネース・エー・ トゥード・イグアル(トラック一台いっぱいに乗り込んだジャポネースはみんな同じ)」といった類のものである。

 日系人はみんな同じ顔をしている。
 日系人は みんな似ていて区別がつかない。
 そうした印象が一般ブラジル人の平均的なものであった。



このような時代においては、二世や三世の若者の中には「ジャポネース!ジャポネース!」と囃し立てられることを不快に感じて、日系人として認識され目立つ ことは極力避けてとおり、日本文化には関心を示さない者が多数見られた。

 一世が楽しそうに行っている太鼓や盆踊りの行事にも、参加すること自体がブラジル 人として「恥ずかしく」遠ざけていた、とある三世は回想している。

 しかしこうしたいわば心理的な重荷を背負った日系人も、それをバネにして着実に社会上昇 していき、とくに大学への進学率を上げていった。

 一九七〇年代当初には、サンパウロ州人口に占める日系人の比率はわずか二・七パーセントであったが、サンパウロ州立総合大学の合格率は約一三パーセントに上っていた。

 そのため、サンパウロにおいては、「日系人を一人殺せば、大学入試に合格する確率がその分増 える」といったブラックユーモアまで広く言い伝えられた。

 日系人は優秀だという評判が定着し始めた時期である。

 同じく一九七〇年代前半には、日本企業のブラジルへの進出ラッシュも重なり、日本製品を中心とした日本の存在がブラジルにおいて注目され始めた時期でもある。

 この頃からジャポネースにはインテリ ジェンチ、つまり「賢い」といった形容詞が盛んに付けられるようになった。


 
こうした「ジャポネース」にまつわる長短は、いわば表裏の関係にあり、微妙なバランスのもとに成り立っていた。

 そして、ジャポネースであることは、積極的に外部に対して意思表明しアピールするようなこととは考えられていなかった。


 
この傾向に変化が現れるようになったのは一九八〇年代後半以降である。

 そしてこの時期には、南米日系人のいわゆる「デカセギ現象」が始まる。

 日本に就労や 勉学を目的に渡る人々が急激に増加し、それとともに日本からの情報や商品の流入も増大する。

 またバブル景気とあいまって経済大国日本のイメージが急上昇す る。

 日本人が尊敬され、日本人の子孫であることが評価され価値を生むようになったと考えられる。

 こうした背景から、自分が日系人であること を強調するような若者が現れるようになる。


日本に渡った日系人の中には、生まれて初めて自分の先祖の文化に触れて、日本人との相違あるいは共通点に目覚める人々も現れる。

 日系人としてのアイデ ンティティを再認識する人たちが多数現れるようになったのである。

 ブラジルにおいて自分が抱いていた日本のイメージと現実とのギャップから日本人アイデン ティティを失ってしまう者がいれば、祖父母から聞いていた文化の一端に触れて日本人の子孫としての意識を強くもつようになる三世も現れる。

 極端な場合には、「成田空港に降り立ち空港のロビーを歩いたその瞬間に、自分は日本人ではないとはっきりと理解できた」と回想する三世などもいる。

 ブラジルにおいては ジャポネース(日本人)と呼ばれていても、自分は決して日本人ではなく、日本のニホンジンとは違うと悟り、ジャポネースとニホンジンを明確に区別する日系人が出現する。

 つまり、日系人にとっては日本の日本人はあくまでニホンジンであり、ブラジルにおける日系人とは違うという認識である。




□ペイシェ・クルー(生魚)からサシミ(刺し身)へ


 
今度は視点を変えて、食文化の側面から見ると、同じような興味深い変遷を辿ることができる。

 多くの二世や三世が証言しているように、かつて 日系人はブラジル人から「ジャポネース・コーメ・ペイシェ・クルー!」(ジャポネースは[あの臭い]生魚を食べるぞ)と罵倒され、生臭い魚を調理もせずに そのまま食べる気持ち悪い人々として嘲りの対象となっていた。

 これはもちろん生臭い魚などではなく刺し身のことだが、そうした食文化をもたなかった大多数のブラジル人にとっては、奇妙なものに映っていたに違いない。

ブラジルで日本食レストランが一般のブラジル人にも受け入れられるようになった端緒は、一九七〇年代後半から一九八〇年代前半にかけて始まった健康食ブー ムによる日本食材への関心だと言われている。

 そしてその頃から日本食の高級化志向も同時進行し、刺し身や寿司を食べることは一種のステータスシンボルにも なっていった。

 ブラジル人の一般的なパターンとしては、日本食といっても最初は鉄板焼きに始まり、天ぷら、スキヤキ、焼きソバなどに移る。

 そしてそこから先に進まない人たちも多いが、刺し身や寿司に関心を示し、健康食であるということも手伝って、次第に抵抗なく生ものを食べるようになる人々も出てくる。

 ま た最近では、焼きソバがその手軽さや値頃感もあり、露天で販売する姿をよく目にするようになった。

 ブラジル人向けにアレンジした味付けのヤキソバを、非日 系ブラジル人が調理し販売するようになったのである。




日本食はブラジル人のあいだで受け入れられるようになったし、かつては嘲りの対象だった刺し身や寿司は、今や尊敬すべき高級食に例えられるようになった。

 刺し身は「ペイシェ・クルー(生[臭い]魚)」ではなく「サシミ」としてその市民権を得たのである。

 この日本食に対する評価の変遷は、日系人そのものに対する評価と重なっている。

 理解できない奇妙なものから尊敬すべき高級なものへの転換である。

 そして世界で日本に対するイメージが上昇し、それにあいまって 日系人への評価も高まると、日系人の側でも日本文化に対する積極的かつ肯定的な評価や捉え方が芽生えてくる。

 和太鼓や日本の踊りはもう決して「恥ずかし い」ものではなく、自分のルーツに関わるもので、自己を表現する大事な手段と見なされるようになったのである。

 それでは、今度は日系コミュニティの変遷を 概観してみよう。



3.日系コミュニティの変遷

 ブラジルにおける日系コミュニティの変遷を歴史的に辿ってみると、大きな流れとして、戦前、戦後以降、そしておよそ一九八〇年代以降という区分ができる。

 そしてそれは、日系コミュニティの呼び方、その総体の一般的呼称からも理解できる。

 つまり、戦前の在伯同胞社会から、戦後以降の日系コロニア、そして八〇年代以降の日系社会という大きな区分である。



□在伯同胞社会、日系コロニア、日系社会

 
第二次大戦以前は日本人移民の大多数は、あくまでも日本人としての意識をもち、ブラジルに滞在する同じ日本国民という観点から、その総体を 在伯同胞社会と呼ぶことが一般的だった。

 日本の敗戦による大戦後は、ブラジル社会の一員として生きていく日系人の総体として、植民地を意味するコロニアと いう言葉にジャポネーザを冠し、日系コロニアという表現が使われようになった。

 この集団においては、一世が中心となって日本との繋がりが重視され、アイデ ンティティとしても日本人であった。

 その後、日系人がホスト社会であるブラジル社会に次第に浸透していく中で、日系人の中にも、日系コロニアにアイデン ティティを持たずブラジル人としてのアイデンティティを獲得していく人びとが増えて行った。

 そして、そうした日系人を含めて、その総体をコムニダーデ・ ニッポ・ブラジレイラ、つまり日系社会と呼ぶようになった。

 ちなみに、タニグチはまさにこの日系コロニアの外で生きてきた日系人であった。

 日系コロニアとは一線を画す日系人が増加するに伴い、日系コロニアは次第に縮小してきたが、その傾向に一層拍車をかけたのが、一九八〇年代後半以降の日本へのデカセギ現象である。

 この日系社会においては、当然のことながら、日系人自身のアイデンティティも多様である。 

 日本人の子孫としての明確な意識をもたずアイデンティティとして はブラジル人だという人たちも多くなった。

 そして日系コロニアの縮小化進行に伴い、その存立が危ぶまれる事態にまで至り、活性化のための様々な試みがなさ れてきている。


4.日系からニッケイへ

 日系人の中には日本人とは違うという認識をもつ人々がいることはすでに述べた。

 その一方で、ブラジルにおいてはやはり他のブラジル人とは異なることから、自分が一体何者なのか、日系ブラジル人というアイデンティティの曖昧性に戸惑う二世・三世も少なからず存在する。

 あるいはまた、その曖昧性の中に固 有なものを見出し、日本人が理解する日系人とは異なる意味で「nikkei(ニッケイ)」という新しいアイデンティティを模索する三世も出現している。


□マツリに見るニッケイ・アイデンティティ 

 日系人が各地で取り組んでいるマツリの中には、単にコミュニティの儀式や娯楽としてのイベントではなく、日系人のアイデンティティそのもの を打ち出す機会として捉えられているマツリがある。

 パラナ州クリチーバにおけるパラナ民族芸能祭がその一例である。

 そこでは、日系人が踊りやタイコといっ た芸能をとおして、日本文化だけではなくニッケイ文化をも究めるべく、日々その鍛錬にいそしんでいる。

 日本文化にその根を持ちながらも、ブラジルという風土で育まれた日系人が取り組むニッケイ文化である。

 日本文化の習い事として始まっているとはいえ、それは決して日本文化ではなく、日系人によるその固有な ニッケイ文化の発露である。

 その究極の目的は決して日本文化の真似事ではない。

 そのニッケイ文化をとおして彼らはnikkei(ニッケイ)という独自なア イデンティティを主張しようとしているのである。


□新しいアイデンティティとしてのニッケイ

 日系人という場合、あくまで日本人の側から見た、海外の日本人移住者やその子孫の総称を指しており、その多様性は全く考慮されていない。

 し かし、ニッケイ・アイデンティティは、その当事者による自己定義であり、獲得していくものとしての性格を備えている。

 日本人から見て日系人という範疇に入 る人が、すべてニッケイになるわけではないということだ。

 この背景にはグローバリゼーション進展の影響がある。

 一つは日本からの豊富な情報の流入と積極的 な交流であり、もう一つは各国日系人同士のヨコの連携である。

 日本との交流が深まることで、日本文化に触発されそれを吸収する一方、究極的には日系人のも つ文化が日本文化とは異なることに行き当たる。

 さらには、国をまたがる日系人同士の接触はニッケイに共通した属性を見出す機会となり、日本文化に基礎を置 きながらも、そこに固有なニッケイ性が垣間見られるのである。


 
冒頭で紹介したカシオ・タニグチは、日系コロニアではほとんど無名だったにもかかわらず、まさにジャポネースとしての資質ゆえにブラジル社会で受け入れら れた。

 その意味で、日本から見た日系人という殻から脱し、ニッケイ・アイデンティティを体現した一人と言えるのではないだろうか。

 日本人移住者がブラジル という新しい国に種をまいた日本文化、その日本文化はブラジルという土壌を得て、今その子孫たちによって新しい文化としてニッケイ文化を形成している。






■まとめ、感想など

 ブラジルの日系人は、日本の日本人とまったく同じではない…という言わば当たり前のことを言われている。

 戦後、日本は工業国として成功した。

 ブラジルの日系人達も、自身で努力を重ね、なお、日本という国の成功を背中に受けながら、頑張ってきたということなのだろう。

 いい意味での、相互の影響であって欲しいと願う。

 なお、ブラジルの日系人について、まとめた文章があった。以下、ご紹介したい。



--ここから--

 ブラジルでは、日系人が最も成功している人々である。

 彼らは1888年に奴隷制度が廃止されてからやってきたプランテーションで働くための移民労働者であった。

 しかし、今日では、日系人のIQは白人のそれを上回り、より稼ぎ、そして大学で大きな比率を占めている。

 彼らは人口の1%未満しか居ないにも関わらず、ブラジルにおけるエリートの 大学であるサン・パウロ大学において、17%もの比率を占めている。


--ここまで--