■テイカカズラ   



□5月上旬、アチコチの庭でみる。上掲の画像は、横浜市で。


□Wikipedia で大雑把に押さえておこう。

 
テイカカズラ(定家葛、学名:Trachelospermum asiaticum)はキョウチクトウ科のつる性常緑低木。

特徴

 本州〜四国・九州地方の温暖な場所に分布する。
 葉は長さ1cm(幼木)から数cm(成木)あり、質感は様々で、一般に幼木の方が革状で光沢がある。

 特に幼木の間は地上をはいまわり、地面に葉を並べる。
 このときの葉は、深緑色で葉脈に沿って白い斑紋が入ることが多い。

 茎からは気根を出して他のものに固着する。
 茎の表面には多数の気根が出た跡が残るので、樹皮には多数の突起がある。

 大きくなると、枝先は高木層の樹冠に達し、幹は直径数 cmに達する。
 葉や茎を切ると白い乳液が出る(有毒)。
 成木になると樹皮から離れて枝を空中に伸ばし、葉は大きく黄緑になる。

 6月頃に花を咲かせる。
 花は房状の花序が垂れ下がったところにつく。花弁の基部は筒状で、先端は5弁に分かれて広がる。

 それぞれの花弁は先端が断ち切られて丸まったような三角形で、それぞれにわずかにねじれ、全体としてちょっとプロペラに似たような形になる。

 5弁の花ははじめ白く次第に淡黄色になり、ジャスミンに似た芳香がある。
 果実は細長い袋果で二個が対になってぶら下がり、熟すると縦に裂け目を生じて種子を散布する。種子にはとても長く白い綿毛があり風で飛ぶ。



類似の植物

 この植物は、特に木に這い登ったときの様子がニシキギ科のつる植物であるツルマサキとその姿が非常によく似ており、区別が難しい場合がある。
 ただし、この植物の茎が灰色なのに対して、ツルマサキは茎が緑であることで区別できる。

 また、キョウチクトウと同じ鮮黄色のアブラムシであるキョウチクトウアブラムシが寄生するので、この寄生が見られる場合には植物学の知識に乏しくても識別は容易である。

 他に、サカキカズラ等もよく似ている。


文化面

 観賞用に栽培もされる。
 栽培品種にハツユキカズラ(斑入り)、ゴシキカズラ(葉が赤味がかっている)などがある。

 和名は、式子内親王を愛した藤原定家が、死後も彼女を忘れられず、ついに定家葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説(能『定家』)に基づく。

 また古典に「まさきのかづら」とあるのも本種のことといわれる。






□まとめ、感想など

 
なるほど、藤原定家の霊がカズラとなって、式子内親王の墓にからみついたという伝説から名前がついたのか。

 才能溢れる式子内親王(同じく藤原俊成に習い、いわば兄弟弟子になるのか。10歳以上も年上だが…)を定家は、愛さずにはおられなかった…ということか。

 ありそうな話ではある。



◇ウィキペディアに式子内親王の画像が載っていたので、示したい。





 

□式氏内親王と藤原定家との関係を書いた文章があった。
 筆者が適当に抜粋して、ご紹介したい。

 
呼び方は「しょくし」なのか「しきし」なのか現在もまだ確定していない。
 式子内親王ですが『新古今』時代の歌人の中でも出色の歌人と位置づけられている。

 平治元年(1159)十一歳で賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に斎王として奉仕。
 斎王とは、天皇の代わりに神宮にお仕えしていた女性のことで、斎王は、天皇の娘や姉妹、従姉妹など、未婚の親族から選ばれ斎宮で暮らした。

 式子は二十一歳の嘉応元年(1169)に斎王を辞して宮中の奥深くで静かに暮らした。

 藤原定家との出会いは治承五年。

 当時の上流階級では和歌は大切な教養の一つでしたから、幼い頃から学んではいたのでしょうが、体が弱く降嫁のお話も断り、和歌を作ることだけが唯一の慰めだったのかもしれません。

 和歌の師は藤原俊成で、彼の歌論書『古来風躰抄』はこの式子内親王に捧げられたものといわれています。

 また、俊成の息子である百人一首の編者である定家との出会いは同じ道を志す者同士としてとても救われたことでありましょう。
 何度も定家が御所を訪ねています。

 定家の方は畏れ多くも生涯を通して憧れ恋い慕っていたようで、式子にもそれは十二分に伝わっていたものの立場上それに応えることができなかったということのようです。

 はかなしや枕さだめぬうたたねに ほのかにかよふ夢の通ひ路

 病弱な体をさらに病いが襲い、建仁元年(1201)の正月二十五日、生涯独身を通した薄幸な生涯の幕を閉じられました。

 定家はこの時から歌を作る意欲をなくしたといわれています。




 →なんというか、千年近くも前の詩人達の偲びあう恋がこのような話題となり、能のテーマとなり、植物の名前にすらなるというところになにか、不思議な感じを受ける。

 当然、両者が才能溢れる、高名な詩人同士であったことも大きかろう。
 勅撰集に残る和歌として巷間に流布され、優れた和歌として尊ばれたことも大きいだろうなぁ。

 言霊(ことだま)という言葉の本質を指し示しているようなことか。








■講談社新書 西行と定家  安田章生著 (昭和50年)
  にも、式子内親王と定家の関係の記述があった。

  関連の部分を転記し、最後に筆者の感想を述べたい。



□禅竹(ぜんちく)の作と伝えられる謡曲「定家」は、その伝説にもつづくもので、内親王とひそかに契った定家が、内親王の死後、執心のあまり、葛となり御墓に這いまとって、互いの苦しみから逃れることができずにいる趣向となっている。

 定家は、二十歳の正月三日に、仰せによって内親王の御所に参上し、はじめて内親王に会っている。
 その時の内親王の推定年齢は、定家より八歳の年長であろ。

 高貴の女性がたきしめていた香の薫りは、若い定家に心溶けるばかりの強い印象を与えたらしい。

 彼は日記に「薫物(たきもの)の馨香(けいこう)芬馥(ふんぷく)たり」と短いけれども深い思いをこめているかのように、書きとどめている。

 その後、内親王の御所に、定家はしばしば参上しており、ことに内親王の晩年の正治元年(1199)、定家三十八歳のときに内親王が病気になられたときは、そのことを心配して、なみなみならぬ思いをしるしている。

  よしさらばあはれなかけそ忍び侘び身をこそ捨てめ君が名は惜し

  身を知れば恨みじとおもふ世の中をありふるままの心よわさよ

 訳:ままよ、それならば私に情けをかけて下さるな、この恋の成らぬことを、私は耐え忍び侘しく思って、出家しよう、あなたの名が惜しまれることだ、というように歌い、また、わが身のことを知っているから、この恋がとげられなくても恨むまいと思っている、この世を過ごしていくままに、私の心の弱くなったことよ、と嘆じている。

 この両首は、定家二十八歳の「奉和無動寺法印早率露胆百首」中の作である。
 題詠的な要素の強い百首歌のなかの作であるが、定家自身の体験が匂っているように思われてならない。

 −−中略---

 式子内親王は、正治三年(1201)正月二十五日、定家四十歳のときに亡くなられた。

 定家は、そのころ以後、急速に作歌に倦むのであるが、そうなった原因のひとつには、内親王の死ということもあったのではないかと思われる。

 この定家には身分違いの高貴の女性に、定家が讃仰(さんぎょう)にも似た深い思慕の情を捧げていたことは、たしかである。

 その思慕の情が、恋情に転化することがあったとすれば、それは彼の心に、深い苦悩をともなったはずである。

 と同時に、その芸術に夢幻的な妖艶味をもたらす大きな力ともなったはずである。

 定家と内親王との悲恋を実証するほどの資料は、今日、ない。

 しかし、定家の恋情の深さを推測することは可能である。

 定家もまた、西行と同様、悲恋を体験した、とまでいうことはさしひかえても、定家が式子内親王に悲恋に似た思いを味わったことは認めてよいであろう。



□式子内親王についてもう少し書き写したい。

 「新古今集」の選入歌数を、その主な作者別にあげると、

 西行九四首、慈円九二首、良経七九首、俊成七二首、式子内親王四九首、定家四三首、寂蓮三五首、後鳥羽院三三首、俊成女(しゅんぜいのむすめ)二九種。



□筆者の感想など

 人の色恋沙汰などどうでもいい…とは思う。

 それはそうなのだけれども、そんな個人の体験というか、辛い思いが、和歌という道具をつかって芸術へと昇華され、日本人の多くが口づさみ、日本人の財産となっていくところがなんとも興味深い。

 上に記したように、式子内親王も定家も「新古今集」に共に40首以上も選ばれるほどの傑出した歌人なのだ。

 上記の本に、勅撰集に選ばれることの意味を示した文章があった。転記したい。


 →「千載集」選進の院宣(いんぜん)を、後白河院より俊成が受けたのは寿永二年(1183)二月であり、平家が都落ちをする五ヶ月前のことであった。

 このとき、平忠度(ただのり)が歌稿一巻をたずさえて俊成の門をたたき、採るべき一首の歌であれば撰入してもらいたいと願い

  さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

 の一首が「よみ人しらず」として撰入された。



 →名を残したいとか栄光の大きさとか…様々な思いがあって、それが人を動かす。
 こういうエピソードが日本人を作っていくのだなぁ。