■森鴎外vs 高木兼寛 …脚気をめぐる論争の中で。




■始めに。

 吉村昭さんの「白い航跡」という本を読んだ。
 主人公は、高木兼寛(たかぎかねひろ)という幕末から明治に掛けて活躍した軍医である。

 明治の初期、日本人に多発した脚気という病気について、その治療法について、森林太郎(鴎外)と争いつつ、治療法を発見した人である。

 森鴎外という人のもっていた頑迷さで、多くの軍人が亡くなったわけであるが、原因となる物質が見つかっていない時点で、一概に非難もできまい。

 筆者が感じたのは、こういう未知の病気とか物質に対する日本人の対応の仕方というものに特徴があると思う。

 いいのか、悪いのか…。

 それは敷衍して、例えば、現代の ufo とか心霊現象に対する対応にも通じていると思える。

 文中で紹介してある、脚気という当時原因不明の病気に対して、森と高木という医者がそれぞれどう対応したか…を比較してみたい。

 それは日本人のもつ弱点を顕在化することになろう。





■まず、脚気(かっけ)という病気が江戸時代末から明治にかけて、どのような状況であったか…その周辺をウイキペディアから転記して、概略を押さえよう。

 
江戸時代の江戸では、富裕層のあいだで玄米に替えて精米された白米を食べる習慣が普及し、将軍をはじめ富商など裕福な階層に患者が多かった。

 江戸時代末期には一般庶民も発症し、江戸患いと呼ばれた。

 経験的に主食を米に代えて蕎麦(Vitamin B1を含む)を食すると、回復することは分かっていて漢方では療法として用いていたが、広くその知識が一般化することは無く多くの患者を出すことになった。

 大正時代以降、ビタミンB1を含まない精米された白米が普及し、副食を十分に摂らなかったことで非常に多くの患者を出し、結核と並んで二大国民病とまで言われた。

 戦後国民の栄養状態の改善に伴い激減したが、1975年ごろからジャンクフードの普及によって再発してきた。

 アルコール依存症患者にも多く、アルコール分解の際にビタミンB1が消費される事と、偏食が関与している。

 最近は高齢化が進み、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題となっている。




■表題の森鴎外と高木兼寛の間で、脚気の原因について論争がなされたのだが、論争の間にも患者の発生はとまらず、被害者の多くは軍人だった。

 ウイキペディアでその概要が書いてあったので、冗長とならない程度に抜粋して、その経過を記述したい。筆者は後で、感想などを述べたい。

■かっけの原因を巡って 

 ビタミンの先覚的な業績を挙げたのが海軍軍医の高木兼寛で、ビタミンB1の単離に成功したのが鈴木梅太郎である。

 高木は海軍において西洋式の食事を摂る士官に脚気が少なく、日本式の米を主食とし副食の貧しい下士卒(ちの下士官兵)に多いことから、栄養に問題があると考え、明治17年(1884年)軍艦筑波に、この前年行なった遠洋練習航海と食生活以外は全く同じ内容で遠洋練習航海を行なわせる試験案を上策し、それが採用され、結果、西洋食の艦において脚気患者が出なかった。

 このことから栄養障害説を確信したとされる。
 下士官兵にはパン食は不評で麦飯に海軍の食料は変更された。

 しかし、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多い麦がよい)は、原因不明の脚気の原因を確定するには、根拠が少なすぎ、医学論理が粗雑すぎた。

 このため、東京大学医学部と陸軍軍医部から批判された。

 とくに大沢謙二(東京大学生理学教授)の消化吸収試験結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説は、誤説であることが明らかになった。

 その実験成績に基づく正論には、高木も反論できず、麦飯支給の結果を公表し沈黙した。

 一般医界からも高木の脚気原因説と麦飯優秀説への反対が多く、四面楚歌の状況におちいった。

 日清戦争とその後の台湾平定戦で、陸軍の脚気患者が急増し、海軍軍医が陸軍を批判したものの、学問上の疑問点を挙げて反論されると、海軍軍医も沈黙した(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)。


■海軍は、原因は分からないが、効果のある対応をとる。

 疑問を解消できないが、海軍軍医部は、日露戦争の戦訓もふまえ、海軍の兵食(麦飯)で脚気を「根絶」したと過信してしまう。

 現実には、高木が没した大正期の中頃から、海軍の脚気患者が急増した(その後、1928年1,153人、1937年から41年まで1,000人を下回ることがなかった)。

 その理由は、兵食の問題(ビタミン欠乏状態)、行動範囲拡大、高木の脚気原因説が誤っていた影響、「海軍の脚気は撲滅した」という信仰がくずれたこと(診断の進歩もあって患者を把握できるようになったが挙げられる。

 海軍の外に目を転じると、昭和期に入っても1938年まで、国民の脚気死亡者数が毎年1万人から2万人の間で推移していた。


■対して、陸軍はどうか。

 海軍の兵食改革(麦飯支給)に否定的な陸軍は、日清戦争のとき、大本営陸軍部で野戦衛生長官をつとめる石黒忠悳(陸軍軍医総監)や軍医部長の一人森林太郎(森鴎外)などが科学的根拠がないとして、麦飯の支給に反対した。

 このため、日清戦争後の台湾平定戦では、高温という脚気が発生しやすい条件も重なり、患者が急増した。

 最終的に陸軍の脚気患者は、日清戦争とその後の台湾平定戦をあわせて数万人、病死者は4,000人と伝えられている。

 戦死者は300人で戦死者より脚気で病死した兵士のほうが多かった。
 しかし、総責任者の石黒は、山県有朋や大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、責任をとることがなく、予備役に編入されても陸軍軍医部に影響力をもった。

 陸軍省医務局長が小池正直に代わっていた1900年に義和団の乱が勃発し、第五師団(戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)が派遣された。

 前田政四郎(第五師団軍医部長)が麦飯の支給を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、2,351人の脚気患者が出た。
 ちなみに戦死者349名、負傷者933名。


■日露戦争ではどうであったか。

 日露戦争のとき、麦飯派の寺内正毅が陸軍大臣であったにもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、白米飯(精白米6合)であった。

 理由として「麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、味が悪い]、輸送が困難などの反対論がつよく」、脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。

 白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情があった。

 しかし戦地では、1904年5月頃から脚気が増えはじめ、猛烈な勢いで増加した。

 ため、8月から軍の一部で麦飯を支給し、翌年3月に全軍での麦飯支給が決定した。

 国内で、脚気患者の大量発生と軍医不足という状況が知られはじめると、陸軍衛生部さらに野戦衛生長官・小池(陸軍省医務局長)に対する批判が高まり、戦後も小池が辞任するまで『医海時報』に陸軍批判の投稿がつづいた。

 最終的に陸軍は約25万人の脚気患者を出し、うち約2万7,800人が病死した。

 まさに脚気惨害である。

 ちなみに、日露戦争の戦死者は約4万7,000人。

 ただし、戦死者中にも脚気患者が多数いるものと推測される。

 なお、高木の提案を採用して兵員に麦飯を支給していた海軍では、軽症患者が少数発生したのみで死者なしと伝えられているが、後年、患者数が大幅に増加した)。


■日露戦争が終わって

 日露戦争が終わると、脚気問題への関心が薄れてしまう。

 1908年に脚気の原因究明を目的として臨時脚気病調査会が創設された。

 発案者は陸軍省医務局長に就任してまもない森林太郎(ただし、日清戦争当時、麦飯支給に反対した)で、寺内自身も熱心に活動したという。

 臨時脚気病調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、当代一流の研究者が総動員され、多額の予算がつぎ込まれた。

 大規模な試験により、脚気ビタミン欠乏説が確定して廃止(1924年)されたが、業績を挙げ、また、その後の脚気病研究会の母体となった。

 脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づけられている。


■明治天皇についての余談

 自身も脚気に苦しんでいた明治天皇が海軍や漢方医による食事療法を希望した際にドイツ系学派の侍医団から反対された事から西洋医学そのものへの不信を抱いて一時期には侍医の診断を拒否するなどしたため、天皇の糖尿病が悪化した際に侍医団が有効な治療手段が取れなかったのではないかとも言われている。


■かっけの原因が究明されてから

 ビタミンB1が発見された後も、一般人にとっては代わらず難病として認定され続けた。

 理由は、ビタミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため値段が高かったこと、元々消化吸収率が良くない成分であるため、発病後に当該栄養分の摂取が困難であり発病後の治療が困難であったことが挙げられる。


■かっけが完全に根絶されたのは

 脚気が完全に根絶されたのは1952年になってからで、武田薬品工業が高吸収率を誇るビタミンB1誘導体の工業生産に成功して販売開始し、安価かつ発病後もほぼ確実にビタミンB1の摂取が可能になってからである。

 ビタミンB1誘導体にはベンファチオミン、ジセチアミンなどもある。


■かっけの再燃

 1975年には脚気が再燃した。

 原因には砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ないジャンクフードがある。


■漢方医を巡って

 明治時代から昭和初期にかけて「迷信的」と言われて絶滅寸前だった鍼灸医等の漢方医であったが、栄養起源説が定着する前に明治末期より西洋医学の栄養学の概念を取り入れて、麦飯の推奨や脚気治療に対して味噌汁に糠を投入する「糠療法」を提唱し民間療法として取り入られ始めた。

 これが効果を示したことで、一般民衆において漢方医の地位の維持に貢献した。






■まとめ、感想など

 長い引用となった。

 冒頭で述べた森と高木の対立の根底には多くの要因があるようだ。

 また、周辺を探りたい。