■真珠湾攻撃の意味 …
なぜ、このタイミングだったか




■はじめに。

 1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃の意味はなんだったのだろうか。

 
なぜこのタイミングで、なぜ真珠湾だったのだろうか。

 総合誌bで、このあたりに触れた記事があった。

 記事の内容を、筆者が適当に抜粋して、上掲の疑問に一つ示唆をお示ししたい。

 筆者には、この記事が正しいのかどうか判断するだけの能力はない。

 ただ、太平洋戦争に敗れて、約60年以上を経過して、そろそろ冷静な目でこの戦争を直視できるタイミングが来たのだなぁと感じている。



■以下、記事で筆者の気になる部分を箇条書きとし、ところどころで補足・感想などをのべたい。--青字の部分は引用---


□日本は太平洋戦争に敗北した。

 敗れた戦争から教訓を学ぶとしたならば、それは第一に敗因を、第二には開戦原因を解明することから始めるべきであろう。

 私は、太平洋戦争の真に敗因は、昭和10年代前後の日本の政治経済体制にあったと考えている。

 じつは、昭和11年〜30年の間、日本は自由経済ではなく、社会主義経済または統制経済をとり、民間企業、国民の創意工夫を否定していたのである。


 ⇒以下、表記の真珠湾攻撃には、2つのキーワードがあると思える。

 1.統制経済  2.山本五十六   である。



□昭和16年から敗戦、占領後の期間は、昭和期において対米比較でgnp がもっとも低かった期間であった。

 昭和16年で一人あたりgnp で7倍、gnp で約12倍の格差があった。

 では、なぜ、日本経済がピークを迎えた昭和11年をさかいにして、日米の経済力は開いたのか、そしてそんな最悪のタイミングで日米戦を開始したのだろうか。




□まず、山本五十六という人物に注目しよう。

 真珠湾攻撃については、おそらくなにもかも、この山本五十六という人の頭脳から生まれたものだ。

 
日米のあらゆる面での国力格差を知悉しながら、軍事のおいてこれを打開しようとした人物が山本五十六であった。

 山本は連合艦隊司令長官として知られるが、元来は軍政(海軍大臣を補佐すべき官僚)畑の人物であり、また「航空界育ての親」「海軍航空界の大御所」で、航空本部技術部長の経験もあった。


□ここで、山本五十六の経歴をWikipediaから引用する。

 新潟県長岡市で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。
 その時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた。

 当時のフルネームは高野五十六。長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校卒業後、明治34年(1901年)に海軍兵学校に次席入学。

 明治37年(1904年)、海軍兵学校を卒業。席次は7番。

 その直後日露戦争が勃発し、日本海海戦において少尉候補生として乗艦していた装甲巡洋艦「日進」の艦上で、左手の人差指と中指を失う重傷を負う。

 大正4年(1915年)、山本家を相続する。以後山本五十六を名乗る。大正5年(1916年)、海軍大学校を卒業。

 海軍次官を経て、昭和14年(1939年)8月30日、
 中将の山本は、聯合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。

 次官当時からの懸案事項の日独伊三国軍事同盟に最後まで反対する。
 航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。


□1930年代に入ると、攻勢作戦の中心兵器は爆撃機をみなされた。

 海軍の場合、それまで主力兵器であった艦船が空からの攻撃に脆弱とみられ、航空戦力の開発は死活的な課題と思われた。


□軽爆撃機による艦船攻撃には3つのスタイルがある。
 水平爆撃
 急降下爆撃
 雷撃(超低空で水平飛行し、航空魚雷を投下する。目標到着、離脱ともに難しい)である。


□3つのうち、山本は雷撃こそ敵艦隊を撃滅しうる新兵器システムであると信じた。
 水平爆撃や急降下爆撃では重装甲の戦艦を撃沈できなかったからである。


□昭和12年に制式採用となったのが中島の九七式艦攻である。

 九七式艦攻は、雷撃機として、同時期のイギリスのソードフィシュに比べ圧倒的に優れ、アメリカのデパステーターを上回り、世界最先頭を走る性能を誇った。

 空母による雷撃。山本五十六が主導した日本海軍の新兵器システムは、昭和十五年の段階で、アメリカに対して一時的に優位に立った。
 つまり、
一瞬であるが、世界一の海軍力を手にしたのである。






□このとき実働可能な日本の空母は9隻、アメリカは7隻であった。

 即ち、空母による雷撃能力だけはアメリカを圧倒できたのである。

 もし、雷撃をもって敵艦隊を撃破できれば、米海軍との太平洋における死闘を制することができるかもしれない、と山本は考えたに違いない。


□昭和15年、ヒトラー、ドイツによる英本土上陸の危機が迫ると、アメリカ議会はエセックス級空母24隻を建造する権限を大統領に与えた。

 エセックス級とは、日本最強の空母である「証鶴」に匹敵する大型空母であった。この建造計画が実現すれば、日本海軍はアメリカに挽回不可能なほどの大差をつけられてしまう。

 この難局に解答を出したのが、またもや山本であった。



□当時、アメリカは海軍主力を真珠湾に集中させていた。

 日本海軍が優位にたつ空母・雷撃の組み合わせは、停泊中の艦船に対して最も有効であった。

 だから、港湾に戦艦がとまって停泊しているところを奇襲すれば、成功は疑いない。


 
真珠湾攻撃は、空母・雷撃で優位にたつ日本の兵器システムからはベストの解答であった。



□海軍が対米開戦に傾いていった大きな要因の一つは、陸軍との権限争いであった。

 日露戦争以後、日本の防衛計画は、陸軍は対露、対ソ作戦研究、海軍は対米作戦研究に任務分掌が定められた。

 真珠湾攻撃とは、海軍の「陸軍をしのぐイニシアチブ」を発揮する絶好の機会であった。



山本五十六と海軍の真珠湾攻撃の狙いは「米国民の士気を回復できぬまでに阻喪」させることであった。

 「米国民の士気喪失」という点では、主力艦といわれる艦隊の象徴的存在を撃滅することは有意義であると考えた。




□まとめ、感想など

 このことが、反対にアメリカの国民に remember pearl harbor という合言葉をつくらしめることになった。まぁ、皮肉な結果と言えよう。

 このあたり、軍人の視野狭窄といわれてもいたしかたあるまい。

 しかし、外国のことが簡単に分かりはじめたのは、それこそ、インターネットが普及してからだ。西暦でいえば、2000年あたりだ。

 ましてや、約60年以前、戦前の少ない情報の中で、目一杯、誤解・偏見をもったとしてもいたしかたあるまい。