■黒田如水   …
その時、左手はどうしていたのか




□はじめに。

 黒田如水(くろだ じょすい)の本を読むたびに思う。

 →表記の問いに
息子である黒田長政はどう答えればよかったのだろうか

  
どう答えれば、親である黒田如水は満足したのだろう

 →筆者には今もって、答えが分からない。




 まず、戦国時代後期の武将、黒田如水の概略をWikipedia から、抜粋しておさらいしてみよう。

□黒田 孝高/黒田 如水(くろだ よしたか/くろだ じょすい)は戦国時代、安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名である。

 豊前国中津城主。孝高は諱で通称の「官兵衛」並びに「如水」の号で有名。

 豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。
 「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。

 天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として姫路に生まれる。

 孝高の祖父・黒田重隆の代に播磨に入り、御着城を中心に播州平野に勢力を持っていた小寺政職に仕えた。
 政職は黒田氏を評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。
 重隆の子職隆には養女を嫁がせ、小寺の名字を名乗らせた。

 1567年頃、孝高は家督を継ぎ、櫛橋伊定の娘を正室に迎え、姫路城代となった。
 
 1573年、小寺氏など播磨の小大名たちは、畿内で勢力を拡大する織田信長と山陰・山陽に勢力を張る毛利輝元の2つの大勢力に挟まれることになった。

 1575年、信長の才能を評価していた孝高は主君・政職に織田家への臣従を勧め、岐阜城で信長に謁見。

 1576年、毛利は5000の兵で攻め込ませるが、上陸したところを孝高は500の兵で退ける。

 この戦いの後、長男の松寿丸(長政)を人質として信長の元へ送る。
 信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に命じて播磨に進駐させた。

 孝高は居城である姫路城を秀吉に提供した。

 ところが天正6年(1578年)、三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻した。 

 さらに摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に立て籠もった。

 このとき、孝高は村重を翻意させるため有岡城に乗り込んだが交渉は成功せず、捕縛されてしまった。

 1年後、有岡城は落城し孝高は家臣の栗山利安によって救出されたが、劣悪な環境の土牢に長期に渡って押し込められていたため左脚の関節に障害が残り、歩行がやや不自由になった。

 このため、以後は合戦の指揮も馬上ではなく輿に乗って行うようになった。

 1580年、秀吉は陥とした別所長治の三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。

 以降は名字に黒田を用いている。

 孝高は信長から山崎に1万石を与えられ、秀吉の与力となって参謀として活躍するようになる。

 1581年、秀吉は鳥取城を兵糧攻めで落城させた。

 策略により周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して兵糧の補給を絶ったため、鳥取城内は飢餓で追い込まれて 3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる。

 1582年、毛利氏の部将・清水宗治が守る高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。

 孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる。

 高松城攻めの最中、本能寺の変が起こり、信長が横死した。

 
信長の死を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦し、光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる。

 1583年賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。

 1585年には羽柴秀次を総大将とする四国征伐に、宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり諸城を陥落させていった。

 植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、長宗我部元親の策略を打ち破った。

 岩倉城 (阿波国) を攻略したところで長宗我部軍は撤退、降伏した。

 1587年の九州征伐では羽柴秀長の軍監として、戦勝に大きく貢献している。

 九州平定後の6月、豊前国の中の6郡、12万5000石(検地後17万石)を与えられた。
 
 天正11年から13年頃に、孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。

 しかし、1587年7月に秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。

 1589年、家督を長政に譲って隠居し、「如水軒」と号した。

 家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。

 このとき、北条氏直から日光一文字の名刀を与えられている(国宝)。

 1592年から朝鮮出兵に参加し、和式城郭の縄張りや、第二次晋州城攻防戦において後藤基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが、1593年に石田三成との間に確執を生じ「如水円清」と号して出家、中津城に引退した。

 1598年8月、豊臣秀吉が死去した。

 如水は同年12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。

 この頃、如水が吉川広家に宛てた書状が残されている。

 「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」 これは、如水が大乱が起きると予想していたことを窺わせる。

 
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こった。

 長政は家康の養女を正室として迎えていたことから家康に与し、大名を多く家康方に引き込み後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

 この頃、如水は九州にいた。

 石田三成の挙兵の知らせを早舟から受け取った如水は、家康方(東軍)として行動を開始した。

 兵力の大半は長政が率いていたため如水は金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、9千人ほどの速成軍を作り上げた。

 9月9日(10月15日)、西軍に与した大友義統が豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。

 城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。

 道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。

 黒田二十四騎に数えられる母里友信らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。

 その後、如水は西軍に属した熊谷直盛の安岐城、垣見一直の富来城、太田一吉の臼杵城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城などを次々と落としていった。

 国東半島沖の豊後水道付近では関ヶ原より引き上げてきた島津義弘と立花宗茂と戦い軍船を焼き沈めている。

 そして11月に入り加藤、立花、鍋島勢を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。


 関ヶ原の合戦の後、長政は家康から筑前国名島(福岡)で52万3000石を与えられた。

 如水も中津城から福岡城に移り、そこでその後は政治に関与することなく隠居生活を送った。

 慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。



 
→これが、黒田如水のおおまかな生涯である。

 冒頭で記述した問いなどを別の本から転記する。(上掲の文章中、茶色とした関が原の合戦とその後の話だ)

□関ヶ原の合戦が起こったとき、如水の眼識は、 王気がすでに西を去っているから家康が勝つとにらんだ。
 そこで子の長政を派遣して、東軍に従軍させた。

 家康制覇の暁、彼の功によって十分の地歩を導くためである。

 長政はさすがに勇猛で、この父の名を恥ずかしめず、毎戦、殊功をたてたので、家康がその功を論ずるに当たっては一躍五十二万石という大名に任じて、筑前に封じた。

 その時藤堂高虎が、その親の如水もまた、九州の石田三成に心をよせる諸藩を虱つぶしに鎮定して、その方面に憂なからしめた大功を申し立て、この恩賞はどうするのかというと、家康は首をふって、「いや、あれのやったことは、底意が知れん」と言って、一石の加増もしなかった。

 長政が新封の筑前におもむく時、中津の城に父を訪うて、つぶさに関ヶ原の戦況を報告し、家康公は、自分の立てた勲功に感謝のあまり、片手を三度もいただかれましたと述べた。


 
「どっちの手を
 「右手です」
 「その時、お前は左の手をどうしていたのだ」


 
長政がこれに答え得なかったので、如水はすこぶる不満の色を示した。




□まとめ、感想など

 さぁ、長政はどう答えればよかったのだろう。

 隙あらば、家康公のお命を…とか言えばよかったのかなぁ。

 そんな具体的なことを聞きたい訳ではあるまい。
 単なる主従関係に安穏とするな…といいたいのだろう。


 →上掲の文を引き続き、転記しよう。


 
如水は、長政を家康の旗幟の下に従軍させたものの、息子が糞正直に家康のために忠義一辺倒で、力戦することを望んだわけではない。
 
 家康と三成の竜虎が対峙して久しきにわたれば、両方ともへとへとに疲れて共に倒れないものでもない。

 その時は兵を中原にすすめ、漁夫の利をはかって、天下を制しようという下心が如水にはあったのだ。

 胸中秘々の策、言葉には出せぬのを、息子の長政は読めなかった。





□別の画像を。






□司馬さんの「関ケ原」という小説を読んでいたら、如水が九州を平らげた部分のことが書いてあった。

 転記して、この黒田如水という人の心の内を楽しみたい。


 →ことは徳川家康が、この黒田如水という人に謀反の志ありやなしや…と疑ったところから始まる。
 密使として、山名禅高という毒にも薬にもならないような人間に問わせた。

 それに対して、黒田如水が答える。

 「
かの年、自分は上方の変報を知るや、思うところがあり、兵を挙げて四方を征伐し、ついに九州を平らげた。

 もし、あのとき自分に野心があるならば、九州の兵をひきいて山陽道をもぼる。破竹のように攻め上る。先鋒は加藤清正である。あの勇猛な清正がわしの軍配で働くならばむこうところ敵はない。

 しかも途中の備前、美作は空国である。そのとなりの播州はわが故郷であり、なじみの者が多い。この播州に旗をたて、檄(げき)を天下にとばせば慕いあつまる者は十万をくだらぬであろう。
 その兵をもって内府の軍と決戦すれば天下の権はどちらに落ちたかはわからない。

 しかし、わしはそれをせなんだ。せぬばかりか、自分が力づくでとった九州の諸城諸国を一つ残らず内府にかえし、しかも見よ、このように身一つで上洛し、内府にその戦勝を賀している。

 ------それほどまでのおれが、いまさら、謀反をすると思うか



 →この報告をきいて、家康は

 「重畳(ちょうじょう)」と微笑し、あとはなにも言わなかった。






□まとめ・感想など

 この人は、確かに戦国の時代に生まれたが、両親からの愛情を十分に受けて育ち、そしてまた、本人も十分な能力、才能にも恵まれた…そんな人なのだなぁ。

 ものが歪んでみえていない。




□海音寺潮五郎さんの武将列伝に、黒田如水の隠居後の暮らしぶりがのっていた。

 転記して、どのように暮らしていたかを眺めよう。


□如水晩年は、風格まことに掬(きく)すべきものがある。

 彼は福岡城の三の丸の小高い丘の上に、自ら望んでごく質素な館を長政に建ててもらって、召し使う者も軽格の者四、五人と小者七人、夫人の侍女も五、六人というきわめて手軽な生活をした。

 城下に出る時には、若党に刀を持たせ、草履取り一人召しつれているだけであった。

 子供が好きであったので、時々人に小鳥や菓子を持たせて連れ、道で逢う子供たちにあたえたので、如水の外出姿を見ると、家中の侍共の五つ六つから十ぐらいまでの子供らがここかしこから集まって来て、如水をとりまいてぞろぞろとついて来た。

 子供らは館に来て、
「大殿様、今日もどこぞへお出かけなされよ。お供します」とさいそくし、如水が外出しない時には、庭をほりくりかえして遊んだり、座敷にあがりこんで鬼ごっこしたり、角力をとったりしてあばれ、時には障子を破ったりふすまにきずをつけたりすることもあったが、如水はいつも上機嫌であったという。 




□感想など

 なにか、宮本武蔵の晩年の頃、絵を描いていた(モズの有名な絵があったなぁ)という話にどこか通ずるものがあるような気がする。

 しかし、黒田如水は、関が原の合戦の四年後にはなくなっている。

 上掲の晩年の頃といっても、短い期間であったのだろう。