■岩倉使節団    
…明治初期に日本はなにをしたか



■はじめに

  韓国の新聞で、日本が明治初めに西欧の制度等を見学にいった岩倉使節団を取り上げていた。

  日本が西欧に使節団を送った10年後に朝鮮から、日本への同じ目的の使節団が来日したのだそうだ。

  それぞれ、同じ目的で訪れたが、その後の見聞の記録をどう処理したかが異なった。

  この違いに着目した記事となっている。

  まず、記事を取り上げ、その後、この記事に触発された日本人のコメントも書き写し、日本人と朝鮮人(当時)の考え方の違いと、国が近代化するためにはなにか必要なのかを改めて確認したい。





■韓国の新聞記事を書き写す。

  1871年11月に横浜の埠頭で、米国・欧州諸国に派遣された岩倉使節団を見送るイベントが行われた。

 太政大臣の三条実美が朗読した送別のあいさつには使節団の性格や目標がきちんと示されている。

 「外国との交際は国家の安定と危機に関係し、使節の能力は国家の栄辱に関係する。
 今は大政維新、海外の各国と肩を並べるべき時点だから、その使命を遠い異国で完遂しなければいけない。

 内外の政治、将来の大業が成功するかどうかは実にこの出発次第であり、あなた方の大任にかかっている。

 大使は生まれつきの立派な資質を持ち、中興の功績がある元老だ。

 共に向かう多くの卿らはすべての国家の主席であり、官員らも一時の人物である。

 皆一致団結してこの立派な志のために協力し、職分を尽くさねばならない。

 私はあなた方の意志が実現される日が遠くないのを知っている。

 行け!海で蒸気船に乗り換え、陸地で汽車に乗り換え、遠い異国の各地を回り、その名を世に轟かせた後、無事帰国するよう祈りたい」。


  使節団を率いた特命全権大使の岩倉具視と大久保利通らは明治維新の主役であり、帰国後に政権のヘゲモニーを握った実勢だった。

 これらは政府の各省庁の中堅官吏ら41人と留学生43人など約100人を率いて壮途に就き、1872年9月までの1年10カ月にわたり、米国・英国・フランス、オランダ、ドイツ、ロシア、イタリア、スイスなど欧米先進国の文物と制度を見学した。

  使節団が収めた成果は使節団に同行した歴史学者、久米邦武によって全5冊からなる「米欧回覧実記」という本に活字化、出版され、全国民が共有できる知識・情報となった。

 同氏が「使節のすべての成果を国民の一般的な利益と開発のために編集、刊行する」と本の始めの部分に書いたように、天皇ではなく国民を代表すると考えた岩倉使節団は自分らの経験を国民と分け合った。

  10年後に日本を見習おうとした朝鮮(チョソン、1392〜1910年)の朝士視察団(1881年5〜8月)はそれらが収めた成果を盛り込んだおよそ80冊の報告書を高宗(コジョン、朝鮮第26代王)に謹上した。

 しかし書道に上達している衙前(朝鮮時代の官衙に所属した小役人)が2カ月にわたって一文字ずつ誠意を込めて手書きした絹の表紙のこれらの本は、国王と一部為政者の政策決定のための参考資料にすぎなかった。

  1世紀前に東アジアで起きた近代へ向かった「時間の競争」で韓国が遅れてしまった理由がどこにあったかが自明である。
 


 
→国民に開示したかどうかが大きな違いと書いてある訳だが。




■この記事に触発されて、多くの日本人からの書き込みがある。

  そのいくつかをご紹介して、国家が近代化、発展するために必要な「資質」はなんであるのかを確認したい。


□江戸時代末期の日本庶民は識字率がずば抜けて高く、知識欲旺盛で蘭学・西洋医学・化学知識あらゆる西洋知識に興味を示し自ら学んでいた、

 しかるに朝鮮庶民は無学文盲がほとんどで文字(ハングル)でさえ読めなかった、
 日本人と朝鮮人の違いはその民度の違いにある、決して為政者のせいではない



□「1世紀前に東アジアで起きた近代へ向かった「時間の競争」で韓国が遅れてしまった理由がどこにあったかが自明である」  

 否定はしませんが、内容には大きな不足がありますね。

 江戸時代中期の1770年代には既に蘭書を自力で日本語に翻訳する蘭学者達がおり(この蘭学の知識を元に幕末には独学で英語をものにする学者達が出てきます)、

 更には下世話な黄表紙本や洒落本とはいえ庶民に一般に書籍が流通し(つまり、そうできるだけの識字率の高さがあった)、という元々の下地があったからこそ「使節のすべての成果を国民の一般的な利益と開発のために編集、刊行する」ことも可能だったのですよ。

 ローマは一日にしてならず、です。



□利に目聡い朝鮮人のことですから、出版すれば巨額の富となるのであれば、禁じられても闇で出版しているはず。

 当時、日本を旅行したイザベラ婦人が、行く先々で「お縁側で涼みがてら本を読む真っ裸の男」を見て、衝撃を覚えたようだ。

 貸本屋もあったと書いてある。

 1冊の本が高価で、個人で買えるものでなくても、みんなで回し読みするとなれば、安い金額で読めるということ。
 
 需要と供給のマッチングが日本にはあったようだ



□結局、現在の、日・韓間の差は、そのまま江戸時代と李朝時代の差なのかも知れない。

 西洋科学の知識を除き、トップレベルの知的能力では双方似たり寄ったりだったと思うんだが。

 ただ、国民全体の平均レベルでは大きな差があったようだ。

 かの時代には、日本の庶民の知的能力の方が圧倒的に高かったように思える。

 だから、多くの国民が、久米邦武の報告書を理解しそこから刺激を受けることができた。
 でも、この違いは何に起因するかな?

 単純に、地理的な違いで、日本にはキリスト教や西洋科学の考え方が早くから継続的に流れ込んだ、ということだけではない気がするけどな。

 日本人には、自身のことなので、かえってよく分からない。
 
 韓国人視点での分析(マンネリ化した反日視点でないやつ)を期待する。



□韓国の近代化が日本に遅れた理由を西洋の情報公開に収斂させていますが、果たしてそうだったのでしょうか。

 日本の江戸時代は寺小屋制度があり、多くの庶民が読み書きそろばんを習っていました。

 おそらく、江戸時代末期の識字率は60%くらいではなかったか。

 だから、西洋の情報の公開は可能だったのです。

 一方、韓国はどうだったか。

 字を読めるのは一握りの特権階級だけの識字率10%程度。

 これでは、西洋の情報を公開したくても、

 読む者はいない。

 韓国の近代化が遅れた理由は、庶民の低学力とリーダーの資質にあったと考えるのが正解と考えます。

 この差異は、150年後の現在でも日韓の差異として引きづられ、ますます差は広がっているのです。



□このコラムの本質は折角の情報を共有せず、独占した為、行動が遅れて差を付けられたという事。

 国家レベルの調査団でなく、一般の韓国人ビジネスマンも同じですよ。

 私も昔、韓国有名企業の研修生を面倒見たが、兎に角資料請求ばかり。

 内容よりもどれだけ資料を持ち帰ったかが評価されるみたいで、それを同僚に教えず自分だけ知ってる事に優越感を感じていた。

 1年後訪問すると渡した資料がそのまま棚に置かれていた。

 ネットの時代になっても同じなんでしょうね。



□日本は2年弱の視察で5冊の本、で 朝鮮は3か月で80冊?

 当時、日本の使節団は身分の高い者ほど勉強熱心で自ら現場に足を運び、筆をとり、その勤勉さに西洋人は驚いたという。

 中国、朝鮮の使節団は視察とは名ばかりで、接待されるままに上の者ほど 物見遊山に明け暮れるのが当たり前だった。



□韓国の歴史感は日本羨望である。

 韓国は認めんだろうが、現韓国人は百済人とは違うし、統一新羅とも違うだろ。

 秦氏・東儀氏などはペルシャ系だ。

 とくに宮廷雅楽の東儀氏などは在日の政治利用を嫌ってテレビで先祖はペルシャ系だと公言し、韓国人で無いことを矜持としているようだ。

 桓武平氏なども朝鮮半島経由のペルシャ系のようだ。

 元々日本は朝鮮半島の南部を領土としていたし、釜山あたりの多くの住民は古代日本人の末裔であろう。

 百済などは日本の舎弟国家だったのだから大きく考えればすべての韓国人は日本人の弟のような存在なのだ。

 日韓併合から類推すれば古代朝鮮半島の小国の王は統治力が無く、白村江の戦いをみても何かと大和朝廷を頼り切った弱小政権だった事実を知るべきである。



□両使節団ともそれぞれの国民のレベル民度に合ったやり方をやっただけ、半万年かけてそのようなレベルの国民しか作れなかったのだ、ということに尽きるのだろう。

 朝鮮は決して「時間の競争」に負けたのではない、時間かければ立派な国になれると思ったら大間違い、「時間の競争」なんて姑息な方法で誤魔化している限り何年かけても先進国にはなれない。

 清国はアヘン戦争で日本より早く開国し近代化のチャンスもあったのに、遅れに遅れた。

 両国ともシナ文化圏に属しながら読書を受験勉強、出世・金儲けの道具とした国と教養として読書した国の違いでもあろう。結論以外は、比較的冷静な記述、出色の出来。



□具体的に数字を挙げるならば、江戸時代の日本の識字率約50%、同時代のイギリス約30%、日本が併合したした当時の朝鮮は約6%、そして日本の教育普及の努力のお蔭で、終戦時の朝鮮は46%程度になったそうだ。



□このような使節団が行って初めて西洋事情を知ったわけではない。

 元々長崎の出島を通じてオランダから情報を得て西洋諸国の植民地政策、帝国主義的動向を把握し、世界情勢を洞察していたから日本は開国、近代化に踏み切った。 

 さもなくば朝鮮と同じ運命を辿ったことだろう。

 朝鮮はあくまでも攘夷鎖国に固執し、近代化することがなかったから帝国主義華やかなりし当時としては当然の成り行きを辿った。 

 今になって日本の併合をトヤカク言っても始まらない。 

 日本より早く目覚め、日本より早く近代化し、日本を植民地化すればよかっただけの事。 

 自らのバカさ加減を認めて諦めなさい。 

 日本による併合によってかなり近代化され、得したんだよ。 感謝して然るべしだ。 



□和時計(不定時法)を作っていた藩の時計師たちは、西欧式の時計(定時法)の仕組みが意外にも単純なことに驚いたという。

 開国と明治維新に続くグローバル化の中で、時計師たちは職を失うが、その一部が定時法時計の技術者へと職をかえた。

 そうした中から、セイコー(創業1881年)やシチズン(創業1918年)といった世界的な一流メーカーが生まれてくる。

 それは不思議なことでも、奇跡でも、まして猿真似でも何でもない。

 なぜなら、開国当時すでに日本の時計技術は、ある意味西欧の技術を凌駕していたからである。

 つまり、受け手側にも、それを容易に理解し、応用できる下地がなければ無意味である。
 当時の朝鮮にそのような下地があったとは思えんのだが。



□比較的に先進7カ国は、国史をありのままを伝え・受け入れ、歴史に苦しむことで社会変革を成し遂げてきた。

 そのエンジンは知識界や報道機関ですが、G7の共通項はそれらの力が世界最高水準であること。

 比べて韓国の知識界や報道機関は均一的、不自由で、質的に「先進国」と「ロシア・中国・北朝鮮」の中間のレベルでしょう。

 同時に韓国の国史は、社会主義国の特徴が見られ、政治的であり民族主義的である。

 韓国のメディアはどれもいっしょですが、折角t日報は「私の意見」があるのだから「質の革新」にも力を入れてほしい。



□朝士視察団は代表12人で構成され、それぞれに随員2人と通訳1人、下人1人がつく5人1班を基本に編成された。

 総勢62人に及ぶ政府視察団である。

 彼らは12の班に分かれて、文部省、内務省、司法省、外務省、大蔵省などを訪問する一方、造船所、造幣局、印刷局、紡績工場、製糸所、鉱山などの施設、さらに学校、図書館、病院、博物館、新聞社などを訪ねた。

 朝鮮政府が、日本の実情を視察するために送り出したのが朴定陽を代表とする朝士視察団(紳士遊覧団ともいう)で、1881年(明治14年)の4月11日に長崎に到着、日本各地を視察した後、7月28日に神戸をたっている。

 朝鮮と日本の関係改善、日本の実情および世界情勢の理解などが主な目的であった。






■まとめ、感想など

  コメント欄を読むと、単に国民に視察での見聞を開示したかどうか…という単純なことではないことが分かる。

  情報の価値が分かるためには、下地というかその情報に価値があるのだ…ということが分かる水準に達した多数の人間が必要だということ。

  結局、教育というようなところに帰するのか。