■十三陵 …明 万暦帝の墳墓



■はじめに。

 定陵をみて…司馬さんの印象と筆者の印象を比べてみて。


 先日、北京を訪れたとき、明の万暦帝の墳墓である十三陵…うち、定陵…をみた。

 たまたま、三十年くらい前にこの地を訪れた司馬遼太郎さんの「万暦帝の地下宮殿で」という文があり、司馬さんの印象を後追いしながら、筆者の印象をぼちぼち述べていきたい。

 →なお、上掲の画像は、定陵の地下宮殿から出口部分。


■まず、万暦帝についてのおさらいしよう。
 辞典から抜粋。

 万暦帝 1563‐1620

 中国,明朝第14代の皇帝。在位1572‐1620年。年号は万暦。

 10歳で即位したため,政務はもっぱら内閣の首席大学士であり,帝の学問上の師でもあった張居正に委ねられた。

 張居正は内政において,綱紀の粛正,冗官の整理につとめたほか,国家の財政収入を確保するため,1580年(万暦8)以来,全国的な土地の再測量と登録更新,すなわちいわゆる丈量を行った。

 対外的には各辺境の防備強化につとめ,とりわけ北方のモンゴル族の侵入を阻むことに成功した。
 このため,明朝は中央集権国家としての機能をいちおう維持することができた。

 しかし,82年の張居正の死後,内閣には彼の政策を継承するだけの強力な指導性をもった大学士がなく,帝も繁雑な外廷の実務から離れて,罹災した宮殿の再建や自己の死後の墳墓(定陵)建設のために法外な資金を投入するなど奢侈にふけり,明朝の政治は弛緩し,財政は傾きはじめた。

 92年から,西北の寧夏におけるボハイの乱,西南の貴州の土官楊応竜の乱の鎮圧,豊臣秀吉の朝鮮侵略を防ぐ救援軍の派遣など,いわゆる〈万暦の三大征〉が開始されると明朝の財源は枯渇した。

 にもかかわらず,帝は大局を顧みず,内廷での私生活の費用を捻出することに専心し,全国的規模で,銀鉱山開発という名目にもとづいて銀を徴収したり,当時画期的な発展を示していた商品流通に目をつけ,商品の国内関税を大幅に増徴しようとした。

 しかもこれらの実務を直接担当した宦官は各地で,地方官を圧迫し,手工業者や商人に不当な要求を重ねたため,民変と呼ばれる都市の民衆の大規模な抵抗運動が華中・華南を中心に全国各地であいついで起こった。

 このころ,東北ではヌルハチが満州族を統一し,1618年遼東の要地撫順城を奪うにいたった。
 明朝は戦費をまかなうため,遼餉(りようしよう)の名で租税の増徴を行ったので,農民の負担は急増し,とりわけ華北で彼らの窮乏化が顕著となった。

 明朝滅亡の遠因は張居正没後の万暦帝の統治時代の中に見いだされる。               



□「万暦帝の地下宮殿で」から引き写す  以下、青の文は司馬さんの文章、黒は筆者の文。

 ▲万暦帝について …万暦帝が即位したのは十歳のときで、日本では武田信玄が健在し、織田信長の興隆期にあたり、堺が南中国沿岸の貿易熱のおかげで貿易港として栄えに栄えていたころである。

 …この定陵というのはかれの57年の生涯が閉じて造られたものではなく、かれの生前、それも二十歳すぎのころからかれの命令で竣工され、六年という歳月を要した。
 陵墓は盗掘されるものである。これを防ぐために墓の内部の秘密を知る人夫は殺されたともいい、あやうく逃げた者もあるといわれる。


 
彼は古代中国の埋葬思想の、思想の延長として死後にも地面の下に生者と同様の生活があるという建前を継承していた。

 …しかし、かれと同時代の十六世紀の多くのひとびとにとってはすでにそういう建前は実感や実景感覚を失い、ただ儀礼として継承していただけのことではなかったか。

 古代以来の伝承を、十六世紀人でありながら真に受けていたところにこの青年の、いわばアホクササがあったともいえる。

 …地面よりはるかな下の、当時の素朴な土工たちに実感としては地軸にちかいかと思われるほど深いところまで掘らせて、そこに、自分の死後の生活のための地下宮殿を…それもすばらしい
質の大理石を用いて…造営させたのである。



□右画像が、地下宮殿内の大理石の壁、現在ではかなりくろずんでいる。

 しかし、接合面などカミソリもはいるまい。

 どれだけ、丁寧な仕事かよくわかる。

 →地下へどのくらい下がったろうか、入り口に辿りつくまで、4〜5階分ぐらい階段をおりたろう。

 地下20m程度というぐらいか。

 この地下に建造物をつくるためには一旦、スリバチ型に掘り下げる必要がある。

 球の体積の公式は

  4/3πr^3

  であるから、

  20m掘り下げた場合、地下20mのところに少しの空間をつくるためにも、
  4/3×3.14 ×20^3 でほぼ33500立方mとなり、その半分が実際に搬出する土砂の量で17000立方m という膨大な量となる。

 卑近な例では、ブラジルの金鉱探しでガリンペイロとか呼ばれる人が掘っているが、あんな感じで穴をほっていったのだろう。



…これを建造するのに、八百万両(明朝の歳出入の経常費は四百万両)もかかった。
 日本歴史に、かってそれだけの建造物は、むろん存在しなかった。


 ただ一人が、誰にもみせずに、そして権力の誇示という政治上の効果にもまったくならない建造物を、国家の経常費の倍もかけて地下に造り、あとは土を盛り上げて埋めてしまうという異常さは、…16世紀に中国では平気でおこなわれていたのである。

 要は搾取ということである。

 搾取というものの規模の大きさに、この地下宮殿をみて驚いてしまい、狼狽のあまり中国はどうかしていたのではないかと思う以外、小世帯の国からきた者としては衝撃を吸収する方法がないようにさえ思うのである。


 当時、中国の人口は一億数千万人だったという(そのころの日本は、二千万余だったかと思える)

 …日本の場合、搾るへき相手が二千万だが、中国にくらべると少ないとはいえ、同時代のヨーロッパにくらべ、フランスを含めてどの国の人より多かった。

 いわば人口の点では大国といっていいのだが、日本の権力者は、平家の清盛にせよ、鎌倉政権の頼朝にせよ、墓といえば石工一人でのみで刻みうる五輪塔だったにすぎない。


万暦帝の顔をみて頂きたい。…下画像参照… 

 ボッチャン顔で、さほどに賢そうにも見えない。

 まぁ、凡庸な皇帝だったのだろう。

 しかし、その人生においては多くの浪費をなした。

 そのお金はどこからきたのか…ということには上記のように「搾取」そのものだろう。

 その搾取の仕方が日本の場合と違いすぎる。

 その根底にあるのは、征服王朝であり、所有するという概念の違いではないのだろうか。
 農民というより農奴ということになるのだろう。

 異民族が征服すると、その土地もその土地の上に住む人間もオレのモノということになるのだろう。
 人間扱いしていない…ということなのだろう。

 そうでなければ、あの万里の長城の途方もない工事を説明できない。

 異民族に征服されるということの恐ろしさが分かるし、客家とかいう逃げ出した人の多さの理由も分かるような気がする。





■十三陵 遠景  …山の麓に茶色の塔のようなものがみえるが、その付近が十三陵。


□定陵 入り口

■明時代の万暦帝…1563〜1620年… の絵  …ボッチャン顔をしている。