■司馬遷 …史記をどのようにして書いたか



□はじめに。

 先日、新書を読んでいると、司馬遷がどのようにして史記を書いたか…という段落があって、興味深かった。
 
前漢という時代に、大著をものするということの意味、その労苦を知ったとき、司馬遷という人の偉大さがあからさまとなる。


□まず、Wikipedia で司馬遷という人のアウトラインをつかもう。

司馬 遷(しば せん、紀元前145年 - 没年不詳)は、中国前漢時代の歴史家。

 姓は司馬。司馬氏は周代の記録係の家系であり、父は前漢の太史令となった司馬談。

 名は遷、字は子長。『史記』の著者として東洋最高の歴史家の一人に数えられる。

 周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。
 太初暦の制定や、中国最初の通史『史記』の執筆などの業績がある。
 その迫真の人物描写は『史記』に文学としての評価をも与えた。

 司馬遷は匈奴との戦いで敗北し匈奴へ投降した友人の李陵を弁護したため武帝の怒りに触れ、死刑を下された。

 だが、死刑を免れる方法として宮刑があるのを知り、宮刑を受けた。

 性器を切り取るというこの残虐な刑罰は司馬遷に多大な衝撃と恥辱を与え、人生観を一変させた。

 2年後、屈辱を耐え忍びつつ宦官として宮廷に赴いて中書令となり、『史記』の執筆に全力を傾けた。

 史記の『太史公自序』にはこの出来事に関して、ほとんど触れられていない。

 だが、友人の任少卿に送った手紙には、彼が一時は自殺を考えながらも、ただ『史記』の完成のためだけに生き長らえようという悲壮な決意が記されている。

 皮肉にも、この事件こそが司馬遷の筆に一層の深みと重みを与え、『史記』を不滅の史書たらしめたのである。

 この手紙(『報任少卿書』)は名文として『文選』にも収録されている。

 司馬遷は『史記』の列伝の最初に伯夷・叔斉を、次に管仲と晏嬰とを置いている。

 この四人は全て君主に対して強い諫言を行って、かつ君主に殺される事の無かった人たちである。
 これらの古人と自分、古の君主と武帝を引き比べて思う所があったのだろう。



 →以上のことを踏まえて…

■新書から、筆者が気になった部分を転記する。

□司馬遷は、42歳から56歳までのあいだに、130編、52万6千5百字の「史記」を書きつづった。

 この526,500字とは、司馬遷が「大史公自序」においえ、みずからしるしている数字である。

 当時いったい、大著をものすということはどういうことであったのか。それは現在のわれわれの想像を絶した困難な仕事であった。

 司馬遷の当時、ものを書くのに実は紙がまだなかった。

 中国で紙が発明されたのは、司馬遷の死後2世紀近くたってからであつた。

 紙がない時代、一般の書物において竹簡、木簡ももちいられていた。

 竹簡、木簡の長さは漢代の尺で一尺(約22cm)幅は5分、その一片に20字前後の文字を記すのがふつうであった。書体は隷書である。

 かりに一片に20字ずつしたためたとしても、25000片となり、竹簡、木簡を史記述作の草稿に用いたであろうという想像は殆ど成立しない。

 さらに驚くべきことがある。

 司馬遷は、48歳から50歳にかけて、囚人として獄にあった。

 かれは獄中にあっても、なお「史記」の述作につとめたに違いないということは、司馬遷の研究者たちのほぼ一致した見解である。

 囚人として獄にあって、どういう著述をしたのであろうか。

 参考資料はもちろんのこと、筆記具も自由にできたはずはない。

 司馬遷の父の司馬談は、大史令という官にあり、この司馬談が歴史を編纂する志をすでにもっていたので、司馬遷は父から受け継いだ史料もあった。

 また司馬遷自身、38歳の時、父と同様に太史令に任命され、それ以後積極的に史料を捜集した。
 家にあるならば利用できる史料はいろいろとあった。
 しかし、獄中、それらをとりよせるということはまず不可能である。

 
司馬遷は、獄中にあって、頭のなかに草稿をたたきこんだのではなかったか。

  
 諸資料を用いなければできない綿密な仕事、たとえば「志」や「表」などは、当然獄中でできなかったが、頭のなかにこれまでやきこんだもので間に合うものは、それをもとに、頭の中で草稿を作ることが可能である。


□さて、ではなぜこのようなことが可能であったのだろう。


 司馬遷は、天文観測や計算、暦の作製、旧事、旧辞の伝承などをつかさどる特殊な家に生まれた。
 
 友人の任安に与えた司馬遷の手紙のなかに、その家側を説明して「文史星暦、卜祝の間に近し」といっている。

 社会的な位置は、うらないや神に奉仕する専門技術者と同様に扱われていたらしいが、ともかくもその家は、特殊な技術を伝える家であった。

 司馬遷もしたがって、当然そうした特殊技術を身につけていたはずである。

 観測術や暦の作製には、計算術も必要とする。

 司馬遷がみずからの述作「史記」を、52万6千500字と数えたのは、その特殊な計算技術を生かしたものであろう。

 別のすぐれた特殊技術は、暗記術であったろうと思う。

 文明が進み、記録が安易になされるにともなって、まず、衰える人間の能力は記憶力、記憶術である。

 しかし、記録がかんたんにはできない古代にあって、人間の記憶力、とくに一定の習練を経た人の記憶力は、現在人の想像を絶する超能力を所持していた。

 
司馬遷は、実はそうした超能力者であった。
 
 そのような能力をもっていた司馬遷であるから、獄中、手元になにも資料がないところでも、記憶を整理して、別のものに組み立てていくことが十分に可能であった。

 獄中の司馬遷は、頭のなかに、ある部分の草稿を構成していったのだ。

 資料にとらわれないほうが、むしろ人間の典型を、太い線をもって構成してゆくことができる。

 かれは獄中にあった三年間も、無駄にはしなかったに違いないのだ。

 ふつふつとたぎる怨みと怒りを歴史社会の人間像の再現・再構成のエネルギーにし、そうして構成された文を、みずからなんども口唱し、つぶやき、なにも記憶具がないところでなお、頭に記憶し続けていったのだと考える。

 出獄した司馬遷は、50歳のとき、中書令に任ぜられた。

 中書令というのは、内廷、つまり天子の私生活の場の総支配人というべき位置で、宦官や後宮の管理をつとめとする。

 中書令は「秩千石」というので、漢代の俸禄としては高級のランクである。

 以後、司馬遷は、生活にもゆとりができ、また、宮廷物資の絹布も、比較的自由に使用できたであろう。

 57歳まで中書令として在官していたが、55.56歳のころ、「史記」は完成される。 

 最終的には、あるいは宮廷から絹布を賜り、それに清書して宮廷に献上したものであったのかもしれない。


□最後に

 司馬遷は自己の全財産、全生活をかけて、不滅の文字をしるし続けたのである。

 一時はその著作を、名山にかくしてまでも、後世に残そうと決意したことが「任少卿に与うるの書」のなかにしろされている。

 それまでも執念をもやしてやり続けたしごと、それは異常な、などということばでは形容できない。

 不屈の執念がなければ、とてもやりおおせることではない。

 それをみごとにやってのけたのが、司馬遷であった。

 司馬遷当時、大著をものすということは、実に容易ならぬことであった。

 古代の記録の重さについて、あらためて認識を新たにしなければならない。

 その記録は、経済的にも評価の限界を越えて、高価なものについた。

 それだけに、たとえ寸言といえでも、軽くなされるものではなかった。

 「一字千金」ということばがあるが、生涯をかけ、全財産をかけて、貴重な絹布に書かれた文字は、それ自体、金銭ではもはや評価できない価値をもつ。

 司馬遷の「史記」には、そうした重みがあるということを考えながら、その重さの”こく”を味わうことが必要である。





□筆者のまとめ、感想など

 長い引用となった。

 
中国の前漢時代という紀元前の時代に大著を書くということがどれだけ困難な作業であったか…ということがよく分かる。

 当然、司馬遷と言う人が特殊な能力をもつ人だということは理解できる。

 しかし、その特殊能力を持つだけでは、おそらく「史記」は書けない。

 「史記」を書かせた動機、「史記」を書き続ける執念を支えたなにかこそが大切なことだろう。

 過去からの記録を後世に残そうとする思いだったろうか。





□別の辞書から司馬遷を転記しよう。

■司馬遷

 生没年不詳。
 中国、前漢の歴史家。字(あざな)は子長、太史公(たいしこう)とも尊称された。

 生年は紀元前145年または前135年の二説があり、没年は不明であるが、その生涯はだいたい漢の武帝の治世(前141〜前87)に終始したと考えられる。

 夏陽(陝西省韓城県)の出身で、太史令(朝廷の記録や天文をつかさどる)の官にあった司馬談の子として生まれ、のちに茂陵(西安市北西)に籍を移した。

 幼少のころから古文で書かれた典籍を読み習い、また全国を周遊しては史跡を訪れ、その見聞を広めた。

 前110年、父司馬談は武帝が挙行した泰山での封禅の儀式に参列を許されなかったことを苦に憤死したが、死ぬまぎわに、古代から当時までの歴史を著作することを司馬遷に託した。

 前108年、父に次いで太史令に任ぜられた司馬遷は、まず暦の改正に従事し、前104年に太初暦を完成すると、父の遺言に従って通史の編纂に着手した。

 たまたま前99年、漢の将軍李陵が匈奴と戦って敗れ、捕虜となる事件が起きた。

 李陵の処分を決める席上では、一家皆殺しの意見が大多数を占めたが、司馬遷は1人李陵の忠節と勇敢さをたたえて弁護したために、武帝の激怒を買い、宮刑に処せられた。

 数年ののち出獄して中書令の官に復帰したが、彼はこれによる精神的打撃にも屈せず、かえって勇猛心を鼓して通史の著作に全力を傾注し、ついに『史記』130巻を完成した。

 彼が『史記』を著述した直接の動機は、父の遺命を受けたことによる。

 しかし、父の憤死と執筆の途上での李陵の禍は、人間の運命について大きな疑問を抱かせ、ついに事実の正確な検討を通じて人間の総合的な価値を決定し、因果関係の不合理性を天にかわって修正することに歴史学のもつ特別な意味を発見するに至った。

 そのため、『史記』のなかでもとくに列伝の部分が異彩を放ち、『史記』とともに司馬遷の名を不朽にしたのである。

 当時の彼の心情と歴史に対する情熱は、友人任安に与えた手紙のなかからくみ取ることができる。

□別の画像もあったので、示したい。


なお、司馬遷の著した史記についても辞書から転記したい。

■史記

 中国、前漢の歴史家司馬遷の著。

 上古の黄帝から前漢の武帝に至るおよそ二千数百年にわたる通史で、歴代王朝の編年史である本紀12巻、年表10巻、部門別の文化史である書八巻、列国史である世家30巻と、個人の伝記集である列伝70巻とからなっている。

 父の司馬談の遺言を受け、紀元前104年前後から編纂に着手し、中途で李陵の事件に連座して宮刑に処せられたが、その屈辱を克服して執筆を続け、前91年ごろにはいちおうの草稿を完成したものと考えられる。

 それまで中国では、儒教の経典として重きをなした『尚書』『春秋』『詩』『易』『礼』のほか、春秋から戦国時代にかけての思想家の著作である諸子百家が存在し、いずれも専門の学者によって伝承され解釈されてきたが、全部を統一して古代から漢までの歴史を書いたものはなかった。

 司馬遷はそれぞれの対立する学派の立場を離れて古来の典籍を自在に利用し、加えて、宮廷に残っていた豊富な史料と広い見聞に基づき、本紀、表、書、世家、列伝という独特の諸形式によって総合的に記述することに成功した。

 司馬遷はこの意味において中国最初の歴史学者であり、中国歴史家の父と称される。とくに彼が創始した本紀、列伝などのように性質の異なった歴史記述の仕方を併存した総合史の形式は紀伝体(きでんたい)とよばれ、班固の『漢書』に受け継がれて、以後の諸王朝の官撰の正史の標準となった。

 宋の司馬光の『資治通鑑』によって完成した編年体と並んで、紀伝体は、中国の歴史記述の基本的形式と考えられてきた。