■大日本帝国の負け方の研究 
…日本の負け方はどうだったのか



◇大日本帝国の負け方の研究

 表題のようなテーマで、総合誌bで記事となっていた。
 内容を筆者なりに、適当に抜粋して示し、末尾に感想をのべたい。


 以下、筆者の気になる部分を抜書きして、箇条書きとしたい。

□日本が太平洋戦争に敗北することで第二次世界大戦は終了した。
 この後、現在にいたるまで世界大戦は発生していない。
 日本は、他と比して”特殊な負け方”をした。
 日本の負け方を再検討し、それが日本の戦後にどのように影響を与えているか-みよう。


1.日本はどのような条件で負けたのか。

◇太平洋戦争では、勝者側が日本に「停戦」の条件を示した。
 それがポツダム宣言である。
 
1-1.ポツダム宣言には

1-1-1. 領土に関して、日本が本州、北海道、四国、九州の4島を保持するという条項があった。 
 第一次二次大戦の敗戦国で領土保全を得て停戦したのは、日本だけだ。
 →領土の面では、日本のダメージは比較的軽かった。


1-1-2.日本側にとって最大の問題となったのは、政体すなわち「国体護持」の問題だった。

 アメリカも「国体護持」あるいは「政体変更」については苦慮していた。
 君主制廃止をアメリカの側から強制するのは得策ではない。
 反面、「革命」が発生した場合、米軍を出動させることはできない。米軍が”共和派”を弾圧することはできない。

 結局、占領後の政体について要求しない、日本国民が決定すると通知した。
 この通知は事実上、昭和天皇の地位を保障することを意味した。

 占領後、日本国民が天皇制を維持しようとしたとき、昭和天皇が退位していれば、その選択は不可能となってしまうからである。



2.敗戦の交渉当事者は誰か。--そして8.15事件まで

 敗戦および戦後で、敗戦国でイニシアチブを握るのは、勝者との交渉担当者である。
 戦後、その役割を務めたのは外務省だった。

 しかしながら、1945年において、イニシアチブを取りうる勢力があった。
 それが陸軍である。


2-1日本の陸軍とは

 海軍に比して、陸軍は、国内にも中国にも多くの兵力を残していた。
 アメリカにとっても陸軍の存在は少なからぬ「脅威」であった。

 アメリカがポツダム宣言を提案した背景には、「本土決戦を避けたい」という思惑があった。
 米軍は日本本土上陸作戦として、昭和20年11月に九州上陸のオリンピック作戦、昭和21年3月に関東上陸のコロネット作戦を準備していた。

 ところが。
 硫黄島では半個師団の日本軍守備隊に対し、海兵隊一個師団をすり潰し、二万八千の損害を出した。沖縄でも日本軍二個師団半にたいし、八万五千の損害を出した。

 昭和20年3月に硫黄島戦が終了した時点で、米軍はオリンピック、コロネット作戦の無期限延期を決定している。損害の予想は米軍百万、英軍五十万であった。
 ドイツ敗北が確実となった段階で、アメリカの国内世論は、もはやこの大損害を容認しなかった。

 つまり、日本陸軍の抗戦が、ポッダム宣言に影響を与えていたのである。


2-2ドイツの陸軍について

 敗戦国の陸軍が、終戦のイニシアチブをとるケースは前例があった。
 第一次大戦におけるドイツである。そこで敗戦を主導したのは陸軍参謀本部だった。
 --中略--

 連合国は、ドイツ軍武装解除や占領を実行するにあたっても、停戦を申し入れてきた参謀本部と交渉するほかなかった。
 戦後も、参謀本部が文民政府に「連合国」の政策を連絡することになり、内政の主導権も握った。


2-3日本陸軍の奇略-一撃和平とはなにか

 国敗れて陸軍あり。この前例をよく知る日本陸軍は、太平洋戦争の終結時にこれを模倣しようとしたのである。
 阿南陸相は閣議でポツダム宣言受諾に強く反対した。

 陸軍の徹底抗戦派が主張したのは、本土決戦による「一撃和平」論であった。
 その狙いは陸軍のイイシアチブによる敗戦にほかならない。
 そのお手本は、第一次大戦のドイツだった。

 終戦時、日本陸軍は、本土にほぼ無傷の六十個師団を配備していた。
 海岸に捨石の部隊を置き、上陸してくる米英軍を内陸に引き込んで殲滅しようという内陸迎撃防御作戦を企画していたのである。

 本土決戦において、米軍に大損害を与えることは確かに可能だったろう。
 一撃を与えて日本陸軍が停戦を申し入れる。米軍も本国の厭戦気分からそれ以上の損害は避けたいので、陸軍を相手に停戦に応じるしかない。

 停戦交渉の当事者は野戦軍司令官であり、陸軍が交渉当事者になると定められている。
 つまり、もし本土決戦が実現し、停戦となれば、ドイツのように、陸軍省が交渉当事者となり、その後も組織や影響力を保持できる---そう考えたのだ。


2-4 8.15事件の内容

 しかし、この目論見はくじかれる。
 昭和天皇、文民官僚、海軍は、もはや阿南の主張する”一撃”すら不可能とみていた。

 戦後、海軍は昭和二十年七月二十四日前後に、呉停泊地において、戦艦三隻、重巡、軽巡多数が空襲により撃沈されたと発表している。しかし、これには不審な点がおおい。
 たぶん、七月中旬には、海軍はポツダム宣言が出されることを知り、敗戦後の艦船引渡しに対処するため、自沈処分を開始したのだと推定される。

 ポツダム宣言受諾に反対することは、休戦の「先延ばし」であり、双方の戦争被害増加を意味する。
 つまり、陸軍のために国民に犠牲を強いる作戦であり、とうてい国民の支持を得られたとは思えない。

 徹底抗戦自体、陸軍省軍事課と軍務課に所属する一部エリート軍人が観念的に考えたプランに過ぎなかった。

 八月十四日、御膳会議でポツダム宣言受諾が決定されると、彼等陸軍徹底抗戦派は、八月十五日零時を期してクーデターを起こした。近衛師団長を殺害、「御文庫」と呼ばれた昭和天皇の寝所を機関銃隊で取り囲み監禁した。
 いわゆる8.15事件である。

 しかし、東部軍管区司令部の田中静壱大將は、これを鎮圧。
 上層部工作も、梅津美治郎参謀総長などの反対で退けられた。阿南陸相は十五日朝、自決する。


2-5 仮に本土決戦があったならば

 もし、陸軍徹底抗戦派の思惑通り、本土決戦が実現していたら、その後の日本はどうなっただろうか。
 内陸迎撃防御をやれば、当然、連合軍は日本国内に攻め込んでくる。
 その後に停戦、和平が成立した場合、沖縄は米軍に、北海道はソ連軍に占領されたであろう。

 つまり、本土決戦の結果、九州や北海道を失う危険があったのである。
 領土面だけをみても、ポツダム宣言受諾よりも好条件を得られたとは考えにくい。


3.ドイツの負け方はどうだったのか。

 ドイツ陸軍は、1943年7月のクススク会戦での敗退後、ズルズルと後退を続けるだけだった。44年6月に米英軍にノルマンディ半島に上陸された。
 ヒトラーには、第一次大戦における4年以上の塹壕戦のトラウマがあった。

 塹壕戦とは、ほとんど戦線が動かず、兵士は湿った壕内でただ命中弾を恐れるだけの陰惨な戦闘であった。
 ヒトラーは大敗北の中でも、塹壕戦を恐れ、戦線が膠着する防勢作戦を許可しなかった。

 それがドイツの負け方を悪化させた。
 その結果、ドイツ陸軍は防衛線を失い、統制を失い個別に降伏していった。
 ドイツ陸軍は総崩れとなって、国土は余すことなく連合軍に軍事占領されたのである。

 全土が戦場と化したドイツ国民は、塗炭の苦しみを味わった。
 ソ連軍に占領されたベルリンでは、十万人の女性がレイプされ、うち1万人近くが自殺したおいう推定もある。

 ヒトラーは自殺し、海軍長官のデーニッツを後継者に指名したものの連合軍最高司令官アイゼンハワーは、この政権による無条件降伏すら拒否した。

 デーニッツ政権消滅後の4年間、ドイツは米英仏ソ4カ国の分割占領下に置かれた。この分割された地域にドイツ人による政府は存在しなかった。

 領土の削減は、45年2月に開催されたヤルタ会談で決められた。
 結果としてドイツは、東西プロイセンとシレジアを喪失し、領土は25パーセント削減された。

 プロイセンは消滅し、いまはロシア、ポーランド両国の一部となっている。
 これらの地にいたドイツ人は難民となるか、ソ連軍によって殺害または抑留されたものと推定される。


4.日本はどのような戦後を手にいれたのか。

 ポツダム宣言の内容について事前交渉し、アメリカとの交渉当事者となったのは外務省であった。
 なかでも、最も長く交渉役を担ったのが吉田茂である。

 ポツダム宣言に基づき、米政府はマッカーサーを連合軍総司令官に任命し、GHQを組織し、保障占領を実行した。

 マッカーサーは、昭和二十二年に入ると、再三、米政府に保障占領終了を建言した。
 一方、吉田茂にとり、GHQは、勝手のわからない国会よりもむしろ扱いやすい相手だった。
 自在に「マッカーサー書簡」によって法令・政令を公布できる利点があり、むしろ占領継続を願って側面もあった。

 ハーグ陸戦規定では、軍政期間中、占領軍の費用は敗戦国負担とされている。
 しかし、当時のアメリカ経済は絶好調にあった。
 GHQは軍政のため大量の日本人を雇ったが、日本にその給与負担も求めなかった。

 米軍駐留費用を「思いやり予算」として日本が支出したのは、昭和五十三年以降のことである。
 米軍の保障占領中、内政においてさしたる混乱はなく、総じて保安面は良好であったとみていい。

4-1日本の負け方を総括すると

 総括すると、太平洋戦争での日本は、敗戦のダメージを最小に抑えることができたといえる。

 戦後体制の実態を検討すると、陸軍の独善的な暴走を退け、領土保障と天皇の地位保全という条件を引き出した上で、整然と兵を引き上げ、武装解除を実行するという、世界史的にも恥ずかしくない”負け方”が浮かびあがってくる。
 それを可能した大きな要因のひとつは、日本の兵士や国民の勇敢な戦闘だった。



5.筆者のまとめ、感想など

 
日本が外国によって占領→植民地とされる危険性のあった時期は、日本の歴史上二回あったと考えられる。
 一度目は、戦国末期、二度目は幕末の頃である。
 
 戦国末期は、織田信長が言っているように、ポルトガル等の本国からの距離が遠く、軍隊の供給がままならないことで無理であったろう。また、当時、日本にはヨーロッパ全体よりも火縄銃の数が多かった時期であるからましてや無理。
 
 幕末の頃はどうだったのだろう。
 日本は、当時多くの藩に分かれ、それぞれが武士階級といういわば武装集団がいた。黒船から海岸に向かって大砲を撃つという形式ならば、外国勢が強いだろうが、内陸戦となった時、地の利を得て、かつ、鍛錬された武士達と戦った時どうなるだろうか。

 このあたりを司馬さんは、外国勢<イギリス、フランスを想定していたのだろうが-->「まぁ、うっとうしく思ったのだろうなぁ」とかコメントされていた。

 このポツダム宣言までの、日本への上陸作戦をアメリカが嫌がるというのと、幕末の頃、イギリス・フランスなどが考えたことと同じというのは興味深く思える。

 日本という国を考える上で、武士階級という戦闘集団が果たした役割は大きいようだ。





□上の画像は、幕末、日本を訪れた黒船サスケハナ号