広開土王碑   こうかいどおうひ 




□はじめに。

 
広開土王碑とは、現代も中国吉林省に立っている、高句麗の第19代の国王、広開土王の功績を記した石碑のこと。  


 まず、どこにあるのか地図で示そう。





 ▲現在では中国国内にあることが分かる。


 ■広開土王・こうかいどおう…374〜413…は、好太王とも永楽太王とも呼ばれる。

 南方の百済,新羅を攻め,396年には百済王の弟や大臣を人質にとり,また404年には2国の背後にいた倭の勢力と対戦してこれを潰敗させたという。

 また西方へは、395年に中国・燕と戦闘を交え,410年には東夫余とも争ってこれを討ち滅ぼし、版図を拡げ,在位22年間をあいだに64城1400村を獲得したと碑文にかかれている。

 碑は、高さは6.34m,幅は、平均1.59mという巨大な柱状で、414年に建てられた。

 碑文には391年に倭(日本)が海を渡って百済・新羅などを臣民としたと読みとれる字や,倭軍と高句麗軍とが交戦した記載があった(4世紀から5世紀という時期は、日本の歴史における空白期で、当時の日本は、文字を持っていないため記録が残っていない)ためか,1883年(明治16年)にその拓本を日本へ持ち帰り、参謀本部でこの拓本の判読が試みられ,〈神功皇后の三韓征討伝説〉とムリヤり結びつけられて,この碑文が重んじられた。












 
上の地図は、5世紀頃の東アジア


 ところが,戦後、1950年代に韓国や北朝鮮の研究者によって,碑文の〈倭辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民〉の部分の読み方に疑問が出され,倭が渡ってきたのではないと,両国の研究者の意見は一致し,今日にいたっている。
 
 日本でも、この碑文の再検討の気運が高まって,いくつかの新知見をもたらした。

 また、碑文の改ざん説もあらわれたが、1980年代初めの中国吉林省考古学研究所の調査では、改ざん説を否定している。

 それにしても、この中国にある碑は、観光名所としては一級品だと思うのだが… モッタイナイ気がする。


□辞書から好太王碑文-と検索し、それを転記したい。

■広開土王

 (374―412)朝鮮、高句麗(こうくり)第19代の王(在位391〜412)。

 正式な王号は国岡上広開土境平安好太王(こくこうじょうこうかいどきょうへいあんこうたいおう)、略して広開土王という。

 日本では好太王というが、同名の高句麗王がほかに3名いて、固有の王号にふさわしくない。 
 諱(いみな)は談徳あるいは安、号は永楽大王。父は故国壌王。

 4世紀の高句麗は前半に燕(えん)、後半に百済(ひゃくさい)から侵略され、苦難の時期であったが、この王代からふたたび領土拡大を図り、次の長寿王代の最盛期の基礎をつくった。

 即位当初はなお百済の侵略に悩まされていたが、395年に北方の諸民族を討伐し、百済にも大勝すると、燕(えん)は王に平州牧遼東帯方(へいしゅうぼくりょうとうたいほう)二国王の称号を与え、遼河以東の支配を認めた。

 396年には水軍を率いて、倭(わ)に従していた百済を討ち、王弟を人質とした。

 この倭は朝鮮南部ないし北九州の倭とみられる。
 398年には沿海州地方の碑麗(ひれい)(沃沮(よくそ)地方)を征服し、400年には倭軍に占領された新羅(しんら)に5万の大軍を派遣し、これを救うと、倭軍を追って任那(にんな)、加羅(から)に迫った。

 しかし、安羅(あんら)などに反撃されて北帰した。

 高句麗軍が南下するのをみて、燕は遼東地方に侵入したが、あまり成果は得られなかった。 
 404年に高句麗は倭軍の反撃を帯方地方(黄海道)で食い止め、以後、漢江下流域の攻防となった。

 410年には北方の東扶余(ふよ)を服属させた。
 このように広開土王は、南方の百済、倭、北西方の燕と厳しく対立しながら、朝鮮中央部から遼河に至る地域を確保した。

■広開土王陵碑■
 この王代の詳しい記録が広開土王陵碑文にみられる。

 この碑は414年に建立され、中国吉林(きつりん)省集安市に現存している。

 碑石は四角柱の角礫凝灰石(かくれきぎょうかいせき)で、高さ6.3メートル、幅1.3〜1.9メートル。

 碑文の字数は総計1802字(1775字説もある)で、文字の大きさは平均12センチメートル平方。1880年に発見され、84年に日本陸軍の砲兵大尉酒匂景信(さかわかげあき)がその拓本を入手し、

 参謀本部で解読した。
 近年この碑文の倭関係記事の改竄、異なった解読、釈文、欠字推定などの問題が提起されている。

 1980年代に入ると、原碑の研究が中国で再開され、84年7月以降、日本人研究者による原碑の見学・研究も始まった。


※筆者注

 
現在では軍部による作為は否定され、拓工が古文字をくわしく拓本にとるため石灰を塗布したに過ぎないことが明らかになっている。 




□Wikipedia から、転載しておこう。

 
広開土王碑(こうかいどおうひ)は、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)の業績を称えるために息子の長寿王によって414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦))に建てられた石碑である。

 好太王碑とも言われ、また付近には広開土王の陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、広開土王陵碑とも言われる。

 1880年に中華人民共和国吉林省通化地級市集安市で発見された。

 高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の碑の四面に総計1802文字が刻まれ、純粋な漢文での記述がなされている。

 風化によって読めなくなっている文字もあるが、辛卯年(391年)条に倭の記事や干支年が『三国史記』などと1年異なるなど4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史、古代日朝関係史を知る上での貴重な史料となっている。

 碑文は三段から構成され、一段目は高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に広開土王の業績、三段目に広開土王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。

 碑文では広開土王の即位を辛卯年(391年)としており、文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがあることが広く知られている。

 また、この碑文から、広開土王の時代に永楽という元号が用いられたことが確認された。



□辛卯年条の解釈

 
ここでは倭に関する記述のある二段目の部分(「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」)について通説により校訂し訳す。

 百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民。

 そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説もある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。

 なお、「■を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされていたが異論もある。



□碑文改竄説

 
この記述に関しては、1884年に大日本帝国陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰って解読した、いわゆる酒匂本を研究対象にした在日朝鮮人の歴史学者李進熙や、北朝鮮の学者から、日本軍による改竄・捏造説が唱えられたことがある。

 その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は

百残新羅舊是属民由来朝貢而後以辛卯年不貢因破百残倭寇新羅以為臣民。

 百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。

 という表記であって、「破百済」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。

 しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、日本の『日本書紀』、朝鮮の『三国史記』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。

 これに対して、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽六年以降の広開土王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された[4]。

 2005年6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨の新聞報道がなされた。

 さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。

 これにより、旧日本陸軍による改竄・捏造説が成立しないことが確定した。





■まとめ、感想など

 この改竄説は、韓国系および朝鮮系の学者の学者たる資質を疑わせしめよう。

 倭国に過去、征服されていたという事実を認めたくないといういわば恣意的に歴史をミスリードさせようとしたものであろう。

 改竄したとされる酒匂氏こそ、迷惑極まりない。

 学問とは、事実のみの上に立脚するものである。





■2008.9月
 
中国と韓国の間で、高句麗についての意見が異なり、様々な問題が生じている。

 この好太王の碑についてもそうだ。

 新聞から抜粋してみよう。


 韓国と中国の歴史紛争の現場になっている中朝国境の鴨緑江流域では、韓国色排除で “中国化”が着々と進められている。

 とくに紛争の焦点になっている高句麗の歴史に関して、有名な「広開土王(好太王)碑」では韓国語(朝鮮語)のガイドが禁止され、不満の韓国人観光客をよそに中国人観光客でにぎわっていた。

 また中朝国境にまたがる白頭山(中国名・長白山)観光でも、朝鮮族自治州を経由しない西ルートが開発され、あらゆる施設でハングルが消えつつある。

 朝鮮族が多く住む国境地帯におけるこうした現象は、中国当局が将来の民族トラブルに備え「韓国(朝鮮)人の民族主義感情を事前に封じ込めておく狙いからだ」と韓国側では受け止め
られている。

 古代、朝鮮半島北部から中国大陸にかけ広大な地域を支配した高句麗(紀元前後〜7世紀)については、韓国では昔から韓民族の国家とされてきた。

 しかし近年、中国では「中国の地方政権」として中国史に組み込む作業が進められ、韓国との間で“歴史紛争”になっている。

 高句麗の城跡や王陵など多数の遺跡が残っているのが鴨緑江中流の吉林省集安。

 そのシンボルが5世紀初に建てられた「広開土王碑」で、高さ6・4メートル、重さ45トンの巨大な石碑に、高句麗の歴史が約1800字の漢字で刻まれている。

 碑文には当時の倭(日本)の活発な活動が記されているため日本でも昔から関心が高く、碑文の解釈をめぐって今も日中韓で研究や論争が続いている。

 石碑は現在、中国政府の手で国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録され、ガラス張りの建物で保護されている。

 建物内部では高句麗風の民族衣装を着た中国人女性ガイドが中国語で説明してくれるが、韓国人観光客の韓国語ガイドは禁止という。

 韓国人観光客には必ず中国人の警備員が付き、監視の目を光らせている。

 このため韓国人団体客の中には、石碑の裏手でひっそり同行者による韓国語の説明を聞く風景も見られる。

 「もともとわれわれのモノなのに、なぜわれわれが肩身の狭い思いをしなければならないのか」
と憤慨する声も聞かれる。

 集安は近年、高句麗遺跡ツアーの韓国人観光客でにぎわっている。

 市内にはこれを目当てに北朝鮮直営のレストランもあって韓国人観光客に人気だ。

 しかし「広開土王碑」を含めすべての遺跡で、説明などの表記は漢字になっていてハングルは 見当たらない。


 
中朝国境を旅行する韓国人たちは高句麗への郷愁などからよく「満州はわれわれの土地」と気炎を上げる。




 
→もともとは我々のものなのに…という感想は如何なものか。

  古来から大陸〜朝鮮半島で様々な民族が興亡を繰り返してきたことがわかる。
  国境がきまったのは、19〜20世紀であろう。

  日本人はいまでこそ、島国に閉じこもっている訳だが、好太王の碑文にあるように、大陸にも盛んにでかけていた民族なのだ。







□2008.10月

 広開土王碑の最新の画像が載っていた。
 ご紹介したい。