■任那日本府…みまなにほんふ…



□始めに。


 
任那日本府とは、日本書紀で引用している「百済本記」に書かれている6世紀中ごろの朝鮮・加羅地方の政治組織のこと。

 日本の学界では、4世紀の半ば以降に大和朝廷の朝鮮進出の基地である任那日本府がこの地におかれたとしているが,そのことを証明する文献や遺跡,遺物は、いまだに確認されていない。



 
上図は、教科書に載っていた4世紀頃の朝鮮半島

 任那は、朝鮮古代の国名で、にんなともいわれ、532年に滅亡した金海加羅国…きんかいから…の別名である。

 他に、金官加羅,大伽耶,狗邪(くや)国,狗邪韓国などと呼ばれていた。

 現在の韓国・慶尚南道金海郡を中心とした地域で,早くから開け、3世紀には韓族,倭人諸国および中国・楽浪、帯方両郡などの海上交通の要衝として栄えていた。

 伝承によれば,任那は、首露王がAC42年に建国し9代490年間続いたが,532年に新羅に降服したという。

 6世紀前半には,新羅,百済の侵入に対抗するため,加羅諸国を糾合し,その盟主になったこともある。新羅に降服したのちも,旧王族がこの地を支配したという。


 この任那については、日本書紀など日本側の史料と広開土王碑など朝鮮の史料とでは,頻度,読み方,領域などにくい違いが見られる。

 日本では、任那の名称を用い,これをミマナと読むが、朝鮮の史料では、任那の名称は,3例しかみられない。

 また、これをニムナとよむ(ミマナのよみは,ニムナの転訛したもの)。

 今後は,まず日本書紀における「任那日本府」を明確にしたうえで、両国の古代史を再検討することが必要であろう。




□Wikipedia で任那日本府 で検索してみると、以下の文章があった。参考に。

 任那日本府(やまとのみこともち)とは、古代、朝鮮半島南部の任那にあったとされる大和政権の統治機関。

 その実態については諸説あり[1]、架空のものであるとされることも多々ある[2]。

 任那日本府(日本府)は古代朝鮮にあったとされる大和朝廷の属領任那の統治機関のことで『日本書紀』にその記述を確認することができる。

 なお、任那日本府の称は、国号が日本と定まった後世に呼称されるようになったものであり、任那日本府が存在したとされる時代にあっては、倭府と称したとみる向きもある。

 日本書記によれば、日本府は欽明天皇の時代に大和政権が盟主的役割を果たしていた加羅諸国のうちの安羅にあったとされる。

 そのため、安羅日本府ともいう。

 当初は臨時の軍事基地に過ぎなかったが、やがて常設の機関となったとみられている。

 日本府には、大臣や臣の姓を持つ有力豪族もいたとされるが、実質的に現地の出身者が指導的な役割を果たしていたという。

 日本府任那は大和政権はじめ日本列島に勢力を持つ豪族層にとり鉄の貴重な供給源であったため、その統治は政権からきわめて重要視されていた。

 日本府の構成員は倭から派遣された地方長官である府卿、府臣、執事の三階があり、在地倭人がこれに任じられたとされる。

 またさらに日本府の構成員として重要なのは、任那数ヶ国の君主を意味する旱岐、大伽耶の大首長、安羅、多羅の次旱岐なる官名が存在し、これらは任那諸国の現地の王や豪族、官人層により構成されたという点である。

 即ち、日本府は倭からの派遣された長官及び在地倭人と任那の現地王侯貴族の協議体であったととらえられている。

 但し、5世紀の倭王武が倭王と新羅・任那・加羅をはじめとする六ヶ国諸軍事の封号官爵を得ており、中華王朝から本拠のある日本列島の外部では君主としてではなく武官の地位のみ認められていたことから、日本府の役割は将軍府即ち軍事機関ととらえられており、外交権・内政権までは持たなかったととらえられる向きもある。

 さて、日本府にとって任那の統治は非常に困難が伴った。

 その主たる要因は任那は百済と新羅に挟まれた地域であり、度々周辺の侵略があったため、領土保全はきわめて切実な問題であったことによる。

 そのため、日本府は百済の盟邦でありながら、時として新羅と和親をはかり、これに不満をもった百済が日本府の任那執事であった的臣の更迭を求めたこともあったが、大和朝廷はこれを拒否したとされる。

 一方で大和朝廷は百済が任那においた地方長官の存在を危険視し、これらを大和朝廷の支配下に組み入れることを求め大和と百済は膠着状態になった。

 その後、高句麗や新羅が百済北部を侵すようになると、百済は執事の功績を賞賛し、大和に援軍を求めた。

 554年、百済が新羅に敗れ聖明王が殺され、やがて562年には任那全土が新羅に奪われ、日本府は滅亡したとされる。





□まとめ、感想など

 歴史を確かめようとしても、日本側にしか資料がないという場合がある。

 韓国・朝鮮側には、李氏朝鮮設立以前の文献というものが存在しないようだ。

 だから、任那日本府というものが存在しないということではなく、存在を韓国側の資料では確認できない…ということが現状であり、正しい表現であろう。

 日本側からすれば、任那日本府は存在していた…と主張しても問題はない。

 また、地図から削除する必要もあるまい。