■李登輝前台湾総統の講演録から…



■前文…台湾の観光案内書に記載されてあった李登輝前台湾総統の講演録は、筆者にはインパクトのあるものだった。

 以下、その講演録をご紹介して、最後に筆者の印象をのべたい。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞以下、講演録∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



■武士道とは

 将来の両国の良好な関係を考える上で極めて重要な台湾人と日本人が共有する精神面における特性、長所を取り上げ、これを今後いかに発展、発揚させるかを皆様と一緒に考えたいと思います。

 さて、日本および日本人特有の精神とは何か。
 私は即座に「大和魂」、あるいは「武士道」と答えるしよう。




 
武士道は、日本人にとって最高の道徳規範で、しかも世界にとっても極めて貴重な財産です。

 現在、人類社会は各地で危険な動きが増大しています。

 政治・軍事面だけでなく経済面でも世界同時不況の予兆が高まっています。
 この危機的状況を乗り切るには何を精神的指針とすべきか。

 私は迷わず日本の「武士道」を挙げます。
 それは人類最高の指導理念といっても過言ではありません。

 だが残念ながら日本では、「武士道」も「大和魂」も1945年の終戦以降はほとんど見向きもされない状況です。

 その背景には、日本人の戦争という「過去」に対する全面否定、つまり自虐的価値観が大きく作用しているのでありましょう。

 「武士道」などといえば、非人間的で反民主的な封建時代の亡霊のように扱われる状態です。

 しかし、日本を悩ませている凶悪犯罪の増加、学校の荒廃、官僚の腐敗、指導者層の責任回避など、国家の根幹を揺るがしかねない今日の由々しい事態は、武士道という道徳規範を国民精神の支柱とした時代には見られなかったことです。

 武士道の否定は日本人にとって大きな打撃であると同時に世界の人類にとっても大きな損失です。

 私は台湾人でありますが、1人の人間として、良し悪しははっきり言うべきだと考えています。

 日本の良さはよく知っているつもりです。
 だからこそ私の信じるところを述べてみたいと思います。

 「武士道」は単に精神、生き方の心得だけではなく、日本人の心情、気質、美意識であり、勇気や決断力の源泉で、生と死を見つめる美学、哲学だといえます。

 私は日本統治が始まり28年経った1923年、現在の台北県三芝郷に生まれました。

 当時の日本の教育システムは素晴らしく、古今東西の先哲の書物や言葉に接する機会を十分に与えてくれました。

 教育勅語には、人間はどう生きるべきか,という哲学的命題から公私の関係を明確に教えていました。

 旧制中学、高校時代は、学校教育や読書の影響もあり、自己修練の気持が強く、”いかに生きるべきか"、”死とは何か"という大命題まで考えるようになりました。

 人間は「死」を真剣に問い詰めて初めて「生」を考えることができます。
 当時、私は死生観について懸命に考え続けました。

 そんな中で新渡戸稲造先生の哲理、人生論に多大な影響を受けました。
 著書『武士道』に強い衝動を受けました。

 同書は外国人に「日本の魂」を理解させるため、アメリカで英文で書かれたものです。

 1899年に初版が出ると世界中で大好評で国際社会にデビューしたばかり日本の声価を一気に高めました。

 アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は、これを読み大感激し、数百冊を購入して世界各国の要人に一読を薦めた話はよく知られています。

 高校時代の私の死生観への疑問に明快に答えてくれました。

 例えば、その中の本居宣長や吉田松陰の和歌などで「生きるための死」というものを私に教えてくれました。
 新渡戸先生は「武士道」で、徳目としてまず「義」を挙げ、義とは一言でいえば卑劣な行動を忌むことです。

 つぎの「勇」は義と密接に結びつき、義のためでない勇気などまったくありません。

 さらには愛である「仁」があり、それと密接に結びつくもの、つまり他人の感情を尊敬することから生じる謙虚の心である「礼」があり、礼には絶対不可欠なものとして「誠」を挙げています。

 そして日本人が人倫の最高位に据えてきた名誉の捉というべき「忠」があります。

 徳目が揮然一体となったのが武士道であると説きます。

 「武士道」という言葉の定着は明治時代後半で、新渡戸先生の著書などが契機になったようです。

 元来、武士道が形成されたのは江戸時代で、天下泰平の世で武士の戦闘精神が、文化的形式主義に磨きをかけられたものです。

 これに対し新渡戸先生は広義の「武士道」は、つまり武士を中心とする日本人の精神一般についてです。

 先生は、「武士道」の形成について日本力積み上げてきた歴史、伝統、哲学、風俗、習慣があってこそといっています。

 武士道の淵源の一つとして中国の儒教の影響も挙げておりますが、実際は中国文化影響以前の大和民族固有のものだったと論じております。

 儒教は死生観を明確にしないため、人間個々の生きる意義と、道徳の間にかなりのずれが生じています。

 所詮は科挙(中国の官吏登用試験)制度とともに皇帝型権力を支えるイデオロギーでしかなく、人民に平安をもたらすものにはなりませんでした。

 新渡戸先生は結局、儒教の死生観不在からキリスト教に道を求めたのではないのかと思います。

 「キリスト教」という新たな道徳体系の下で、武家時代の狭義の武士道ではなく、精神的・理想的な生き方を追求し、未来永劫に通じる道徳規範としての広義の「武士道」の価値を再発見されたのです。

 それは「不言実行」の美徳であり、公私を明確に分離した「公に奉じる精神」といって良いでしょう。
 注目すべきは「武士道」には教義も成文法もなく、あるのは格言などだけです。

 これはそれほどまでに日本人の血となり肉となって定着していたということです。
 だからこそ私は、戦後における日本人の価値観の180度転換を非常に残念に思います。

 今、日本人は一刻も早く戦後の自虐的価値観から解放されなければならないと思います。
 もっと自信と信念を持つべきです。

 かって「武士道」を築き上げた民族であることを誇るべきです。
 それでこそ初めて、日本は世界のリーダーとしての役割を担うことができるのです。


□台湾精神について

 戦後、台湾は久しい間、中国大陸から渡ってきた国民党政権に統治されました。
 中華世界の伝統的な政治システムである皇帝型権力構造が持ち込まれました。

 その政治文化は、法治でなく人治であり、「公」と「私」が不明確で、その結果、社会には腐敗し、道徳は著しく低下しました。

 私は総統就任後、民主改革を推進しました。

 台湾における民主化は単に自由と民主の問題だけでなく、目ずと台湾のアイデンティティ問題に招来します。

 なぜなら台湾人は歴史的に自分たちの政権を持つことがなく、この国の主人公であるという意識が充分に育ってなかったのです。

 それを考える上で、独自の文化、精神とは何かを振りかえざるを得なかったのです。

 台湾の民主化で注目すべきは、台湾人社会が「人治」から「法治」へ比較的に整然と移行していることです。

 法治社会の実現には、人々の間に尊法精神が根付いていることが前提条件ですが、台湾人はそれを日本統治時代に身につけ、戦後の人治社会の価値観に完全に染まっていませんでした。

 台湾は海洋国家としての歴史を歩み、早くから貿易中継基地として繁栄してきました。

 台湾人は、同じ海洋国家である日本文化を瞬く間に吸収しました。

 中国の大陸文化が結局、台湾には根付かなかったのもそのためでしょう。

 台湾の原住民や漢人移民は様々な言語・文化をもち、西洋や日本などの外来政権からも様々な文化的影響を受けたほか、台湾社会は開拓移民により拓かれ発展してきました。

 こうした歴史的要因から台湾文化は多元的で重層的です。

 同時に進取、冒険、克苦奮励の精神を育くみ、台湾の繁栄を支えていることは疑いない事実です。

 台湾人の「日本精神」(リップンチュンシン)も台湾の国民精神の重要な一つといわなければなりません。

 これは日本統治時代に学んだ勇気、勤勉、責任感、遵法など諸々の良いことを指します。

 台湾人自らが、近代的国民としてこれらの素養、気質を誇りとし「日本精神」と呼んだのです。

 「武士道」としての「日本精神」があったからこそ、台湾は中国の人治文化に完全に飲み込まれることなく、近代社会を確立できたともいえます。

 武士道は、台日を含むアジアの近代社会建設の原動力であったことが理解できます。

 精神的な伝統や文化の重みを理解せず、皮相的な進歩ばかりに関心を集中するのは現代社会の通弊だと言うこともできます。

 私は総統就任以来、積極的に精神改革を提唱してきました。

 これは政治改革よりも困難なことです。

 知識人には理性ばかりで実践が見られません。

 改革はまず実践です。

 私は「公の精神」を主軸に台湾人のアイデンティティを確立していくためには、新渡戸先生の『武士道」をテキストにするのが一番良いと考え、台湾各界の人々に公私の問題を語っているところです。

 同じように日本人に対しても、かっての誇りある日本人のアイデンティティを取り戻して欲しいと願います。

 私は芭蕉の『奥の細道」に表されている「わび」、「さび」こそ、日本人本来の麗しい心情であり情緒だと思っており、私はいつの日にか日本の人たちと”奥の細道”を歩くのを楽しみにしています。

                  (講演日2002年12月15日)


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞講演録はここまで∞∞∞∞∞∞∞∞∞




▲筆者の印象

 
筆者は新渡戸先生の「武士道」という本を読んだことはない。

 ただ、先日来、何十年ぶりに司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」全巻を読んだ。

 竜馬のような生き方というものは、儒教の影響からだけではでてこないなぁ…と感じた。
 やはり、儒教というものの下地に日本人独自の彩色がなされているのだろう。

 そして、これらの根底にあるのは「美意識」ということであろう。

 日本人独自の美意識が、単なる武器に過ぎない日本刀を芸術の域にまで高め、人間の生き方までも美意識というもので評価してしまう…そんな風習を作り上げてしまったのではないだろうか。