■天才教育 その結果



□はじめに。
 いわゆる天才教育というものがある。
 中国で盛んに行われていたのだが、結果としてどうなったかが総合誌bに記事として載っていた。

 その部分を抜書きし、末尾に筆者の感想を述べたい。



■中国はいわゆる「天才教育」というものに積極的に取り組んだ。

 今ものこる、飛び級して11、2歳で大学に合格した子供をメディアが大々的に取り上げたり、数学オリンピックで優勝することに熱心だったりといった現象もそのひとつ。

 だが、90年代半ばまで、まさに国をあげて取り組んできた、超エリート養成機関である「少年班」のようなものは自然消滅していった。

 当時、「少年班」の総本山は中国科学技術大学にあった。そこから多くの天才児が国費でアメリカに留学した。
 だが、その多くは社会人となるころにはまともに社会生活さえ送れない大人に育っていたとされる。

 実際、いくつかの追跡例がメディアで紹介されたが、そこでは電池が切れたように脱力してしまった無気力な大人になった者や世捨て人のように暮らす姿が紹介されていた。





□まとめ、感想など

 上記は中国の例である。

 天才教育というものがすべて失敗するという訳ではない。ヨーロッパ、アメリカなどでは成功例があるようだ。
 アメリカでは gifted course というものがあって、別メニューのようになっている。

 ただ、中国、韓国出身のこういう天才児達の成功例はないとのこと。
 中国、韓国の儒教というもの影響とか、親がこういう子供に対して常識人でありつづけることができないためのようだ。

 そもそも、こういう天才児の教育ということの蓄積がない…ことが大きいのであろう。
 日本人でこういう天才児が出現した場合、アメリカで教育を受けることが多い。
 日本では18歳以上でなければ、大学の入学を認めないし、異分子というものへの風当たりが強いからだろう。






■2012.2月

 中国人が、自国の英才教育についてふれた文章があった。長文であるため、筆者が適当に抜粋して、ご紹介したい。

--ここから--


 
PISAは「生徒の学習到達度調査」の頭文字。

 経済協力開発機構(OECD)が15歳児を対象とし2000年から3年ごとに実施している、義務教育で学んだ知識や技能を実生活で活用する力を評価するテストである。

 2009年の調査は65カ国と地域の約47万人を対象にした。
 結果は2010年12月に発表された。

 今回の結果によると、中国の上海は読解力が556点、数学的応用力が600点、科学的応用力は575点、全分野で1位になった。

 一方、日本は520点(8位)、529点(9位)、539点(5位)だった。

 OECD加盟国の平均は493点、496点、501点なので、上海の優位が目立つ。
 中国は今回初参加で上海だけが参加地域となった。

 つまり、初参加の上海は、世界を驚かすような好成績を収めたのだ。

 そんな上海の順位は日本でも注目され、テレビでは話題になり、教育現場と教育行政のなかで上海詣の動きがある。

 筆者もいくつかの感想を述べたい。

 上海は全分野を通して成績上位の生徒が多いだけでなく、下位が最も少なく、上位と下位の差が小さいのが特徴。

 これを見て、オリンピックを連想した。

 中国はオリンピックを国威発揚のチャンスと捉え、力を入れてきた。
 その結果、オリンピックのメダル数が1980年代以降急速に伸び、特に2008年北京五輪の成績は圧倒的強さを誇った。

 それはそのはずだ。
 出場選手はすべて厳しい条件で選び抜かれたスポーツのプロ、エリート中のエリートである。

 中国のナショナルチームは全員幼い頃からスポーツ一筋の人。
 各級政府の作っているチームから這い上がり最終的にナショナルチームの一員として選ばれ、そしてさらに厳格な選抜を勝ち抜いて出場選手になる。

 日本のように大学や会社・企業に所属しながら訓練・トレーニングするのではなく、毎日ひたすら特訓に打ち込む、そんな者ばかり、だから強くなるのは当然だ。
 賞金も半端ではない。

 日本の金メダル300万円、銀メダル200万円、銅メダル100万円とはケタが違う。
 ここまで書くと、話が本線からずれているように見えるが、そうではない。

 「国際」的なイベントへの対応において中国は基本的に「国家の威信」「政府のメンツ」を強く意識して最大級の資源を投入するということである。

 OECDの学力テストでも、中国からみれば国際的なイベントに該当する。
 だから、最先端の上海の最高水準の学校のもっとも賢い生徒に参加させる。
 極めて分かりやすいことではないか。
 
 しかし、オリンピックのメダル数は中国全体のスポーツ水準を正確に反映しているといえるのか、疑問だ。
 逆に、メダル数の不調は日本全体のスポーツ水準の低下を意味するのか。

 PISAの順位は上海市全体、あるいは中国全体の教育水準を代表することができるか、答えはノーである。

 これまで中国は英才教育をやっている国だといった漠然としたイメージを日本人には持っているものの、いきなりナンバーワンの成績を出せるとは誰も予想できなかっただろう。

 それを受けて日本にも、「中国の教育は素晴らしい」「日本は中国に学ぶべきだ」と言い、中国式の英才教育を日本にも導入しようと考える人が増えている。

 しかし、そのような愚行をぜひやめてほしい。
 なぜなら、英才教育は間違いなく日本を滅ぼすからだ。
 以下では主な理由を述べよう。


(1)中国はもともと階級社会なので、英才教育が適している。
 しかし、日本は平等を重んずる国だから、底上げ教育はベストである。


 中国はもともと英才教育を貫いてきた歴史があり、英才教育は現在始まったものではない。

 前近代教育において、塾や家庭教師が教育の担い手で、塾に通える人や家庭教師を雇える人は裕福層や金持ちの子どもだった。
 それができる人々は社会のエリートに属する。

 そのため、中国の識字率がずっと低く、人びとの大多数は字の読み書きのできない者である。
 現在の中国でも、字の読み書きがままならない国民が多くいることは周知のとおりである。

 2000年第5回全国人口調査の結果によれば、非識字者は8507万人、非識字率は6.12%である。

 特に農村部と内陸部の非識字率が都市部を大きく上回っている。
 識字率と国民1人あたりの所得の間には、とても密接な関係がある。

 中国は今後も経済が発展し続け、国民の識字率も上がると見られる。
 一方、学校教育を受けなかった高齢の人、学校教育から離脱した人びと、そういった人びとの非識字問題を解決することは難しい。

 漢字。その難しさに加えて、文語と口語の分離によって生活に役立てるまで長い年数の教育を受けなければならない。
 だから、経済力のない家庭は無理である。

 特に科挙制度の確立に伴い、エリートと非エリートとの階層社会の形成は一層激しく、教育はますます英才教育に傾いた。

 書籍や新聞などが100%近く漢字を使っている社会では、本や新聞などを難なく読み、必要な書類を作成したりするためには3000字以上の習得が必要といわれる。
 言い換えれば、
中国では、高等学校まで行かないと、新聞も読めない、手紙も書けないということだ。

 日本は中国の漢字を受け入れ漢字文化圏の一員になったとはいえ、独自の仮名を発明したお陰で、漢字の習得が生活に役立てるレベルまでの所要年数はずいぶん短縮できた。

 日本では昔から一般庶民、江戸時代では町民も広く教育を受けられるようになった。
 特に日本は科挙制度を輸入しなかったことが大きい。
 結果的に、教育はエリートの独占状態を免れ、一般庶民にも浸透していった。

 現在のいわゆる底上げ教育は実は長い伝統を持っていることであるといえる。
 底上げ教育か、それとも英才教育か。こうしたそれぞれの国の風土や伝統を無視して語ることができない。


(2)英才教育は「国を治める」手段に過ぎず、国を発展させるためには底上げ教育が欠かせない。
 国の発展に役立つのは底上げ教育であって、英才教育ではない。


 日本の明治維新以降の近代化、1950年代以後の高度経済成長は、底上げ教育のお陰だ。

 特に戦後短期間で戦災の廃墟から這い上がれた最大の要因は、国民の教育水準の高さにあった。

 近年、「今の日本は強いリーダーが必要だ」「日本には優秀な人材が少ないから経済が衰退していく」「だから日本も英才教育を実施すべきだ」といった声があちらこちらから聞こえてくる。

 よく考えてみると、強いリーダーとか、優秀な人材とか、そもそも底上げ教育とは矛盾しないことである。

 強いリーダーは学校から生まれてくるものではなくて、社会システムや政治体制のあり方と密接な関係がある。

 優秀な人材も決して英才教育をやれば育てられるようことではない。
 また、どんな人が優秀な人材と見なされるかは、判断基準によるところが大きい。

 中国では今、多くの分野において英才教育を受け、海外の名門大学を出た人が要職を占めリーダーになっている。

 アメリカのハーバード大学、イェール大学、プリンストン大学、イギリスのオクスフォード大学、ケンブリッジ大学などを卒業したエリートたちは官僚として登用され、大臣級ポストに就いた者も少なくない。

 彼らは優秀だけでなく若い。
 中国のリーダーは急速に若返りしており、年齢がわずか40代の大臣級官僚、市長や県長はごく普通になっている。

 しかし、中国ではエリートが宙に浮いているような状態になりがちだ。

 なぜかというと、リーダーがエリートだけれど、チームを構成するメンバーのばらつきが大きく、リーダーについていけなかったりする。

 これは、国を統治することができるかもしれないが、国を発展させるような体制ではないことが明らかである。

 ピラミッドに例えてみると、底上げ教育の日本は裾野の広くどっしりしたピラミッドである。
 一方、英才教育の中国は裾野の狭く細長いピラミッドである。

 いずれもエリートが君臨しているというならば、中国のエリートは宙に浮いており、能力が発揮しづらい状態にある。

 また、会社や企業で働く人員構成を比較してみよう。

 日本と中国において、経営のトップ、管理層、研究開発は大抵同じく大卒以上の人が中心である。

 しかし、作業現場に目を転じると大きな違いが存在する。

 日本は絶対多数の大卒と一部の高卒からなるが、中国は少数の大卒・高卒と絶対多数の中卒・小卒によって構成されている。

 うまくいきそうなのがどっちか、軍配が日本のほうにあがる。
 国全体のことも同様だといえる。

 いまの中国は大きく発展しているのではないか。
 確かにそうだ。

 しかし、中国の発展は英才教育の成果ではない。
 大量の資本投入やインフラ整備の重点化に比べ、教育の寄与度が大変低い。

 底上げ教育の日本は飛び級をほとんど認めないが、英才教育の中国では飛び級制度が広く設けられており、10代前半の大学生や20歳の博士を輩出している。

 いうまでもないが、英才教育を受け、幼い頃に頭角を現わした人は必ずしも大人になっても活躍できる人材とは限らない。

 日本は中国のように多くの国民を教育から切り捨てて、力をもっぱらエリート養成に向けることは決して難局を切り抜け、いい将来を保障できるものではない。


(3)英才教育は子どもをだめにする道具であって、底上げ教育こそが人間性の育成に役立つ。

 上述のPISA調査結果によれば、上海は週当たりの学校の学習時間が長く、国語は256分(日本211分)、数学は274分(同235分)、理科は202分(同148分)だった。

 子どもの学習習慣に関しては学習時間が長ければ長いほどいいと思ったら大間違い。

 上海の関係者自身も、「教員がつい長時間指導してしまい、生徒自身で考える時間がまだ少ない。

 生徒の負担が重く、プレッシャーも大きいので改善が必要だ」と認めている。

 1日は24時間、誰でも同じことだ。

 時間を学習に多く割けば、ほかのことをやる時間が比例に減る。

 一日の時間配分は子どもの一日の過ごし方を決めてしまうから、決して軽視できることではない。

 中国の子どもは学習に追われて、体育、部活、遊び、睡眠の時間、一息をつく時間が少ない。

 内陸部から沿海部まで、中国はまさに英才教育の極限状態に挑戦しているように思える。
 しかし、その先には、子どもが犠牲になることが待ち受けているに違いない。

 子どもは負担が重く、遊びと睡眠の時間が足りないといったことは中国の教育が長年抱えている問題で、有識者に指摘されて久しい。
 しかし、改善する気配が一向にない。

 中国(上海)は確かに学習の成績が日本より上位だが、子どもの成長を全般的に見て果たして日本が中国に負けているといえるのか、絶対違うと思う。

 いや、むしろ日本が勝っている。

 日本の子どもは体育、部活、遊び、睡眠など学習以外にも多くの時間を過ごしており、中国の子どもより豊かで多彩な日々を送っている。

 学習という営みは子どもや若い時にしかやらないことではなく、むしろ一生涯のことである。

 特に頭と身体の成長期にある義務教育段階において、感性を磨き、人間性を育てることは極めて重要である。

 そういう意味で、スポーツ、遊び、部活にも打ち込んでいる日本の子どもはよほど健全だといえる。

 底上げ教育と英才教育はどれも一長一短があるというなら、両者を合体すればいいじゃないか。
 しかし、こんなうまいことがあるはずはない。

 国の教育方針は、教育資源の配分を決めることになるから、底上げ教育か英才教育かのどちらかである。

 日本は世界で戦える国を仕上げるためには、国民全員の力を必要とする。
 ならば、底上げ教育しかない。


(王◇◇) 


-
-以上--



◇筆者の感想など

 長い引用となった。
 筆者も上の文章の主張はほぼ正しいものと同意する。

 中国人の執筆者がふれているように、英才というものは、多くの準英才達を切り捨てて残った人間だということだ。

 中国では、雑技団とよばれるタレントが存在するが、同じように子供の頃に選抜されてある特定の技術・技能に特化して教育を受けた人達だ。

 競争の中で、能力の劣る人間は脱落していくのであろう。
 そうして残ったエリートが、オリンピックへ、なんとかピックへ出場するということなのだろう。

 
上記の文章の執筆者の言いたいことは、見た目の「華やかさ」に騙されるな---ということなのだな。
 一人の英才の出現の陰には、多くの脱落して「使い物にならなくなった」人達が存在するということだ。また、教育を受けるだけの豊かさ、機会を与えられず文盲のままという人達が多く存在しているということなのだ。

 中国という10億人を越える人間のいる国ならではの「偏った教育システム」だということであろう。
 
日本には日本人向きの教育方法がある。それが文章にある「底上げ教育」なのだ--と。

 そのあたりは、筆者も納得する。