■挨拶



□始めに。

 外国人による日本語での弁論大会というものがある。

 以下はアメリカ人女性による発表の文章なのだが、日本人からすればなんということのない言葉--ただいま、いってきます、おかえり…というような言葉の意味を、日本人とアメリカ人とを比較して論じている。

 一読して、筆者は根底にあるものは「文化の厚みの差」ということであろうと思った。

 そして、毎日々、ただいま、おかえり、いただきます…といい続ける習慣に中で、魂(たましい)のようなものに近づけるのだなぁ、と感じた。

 まず、文章を読んで頂きたい。

 異国の言葉を使っているとは思えないほどの文章だ。

 この女性は、余程、賢いのだな。




□まずはご紹介する。末尾で、もう少し、感想を述べたい。



「挨拶」   s   アメリカ

 私は、アメリカの家に帰ってくる。

 車を車庫に停めて、こだまする自分の足音を聴きながら、扉のかぎを開けて、玄関へと向かう。
 取っ手の冷やりとした感触が、それを離した後もなんとなく指先にこびり付いているような気がする。
 父と母の車も右側に停めてあるので、両親の気配を感じる前に、家の中に居るのを察することが出来る。

 スニーカーを履いたまま、台所の敷居をあがり、鞄をドンと肩から降ろす。
 部屋の奥に、母がヘッドホンをかけ、ニンジンを切る姿が見える。
 数秒が過ぎた頃、ついに振り返って、私に小さく笑いかける。

 テーブルを机代わりに勉強している妹は終始、なにも云わない。
 顔も上げない。
 大声を出して挨拶するのはただうちの犬ぐらい。

 父は多分家のどこかで仕事に没頭していると思うけど、詳細は分からない。
 椅子に腰をかけて、今日の新聞を静かに読み始める。
 居心地悪いわけではないが、時折「何か、もの足りない」という気持ちが拭い切れない。

 日本で私は、ホームステイ先のアパートに帰ってくる。
 鍵をバッグの底から釣りだすよりずっと前に、子供のはしゃいだ子犬のような声が戸の向こう側から耳に入ってくる。
 「おかえり、おかえり」と私の名前を連呼しながら、ちっちゃい手で私を引っ張る。

 この幼児たちはいつも自分の世界で悪と戦っていて、大人とまともに語ることのできない年齢のはずなのに、食べる前には手を合わせ、ちゃんと「いただきます」を忘れずにする。
 晩御飯に飽きてテーブルから離れてゆくホストの弟が笑顔で「いってきます」といたずらっぽく言う。

 なにかの挨拶が欠けたら、一つ上のお姉ちゃんが「もう〜」と言って正しい挨拶の仕方を教えてあげているのをよく見掛ける。
 アメリカにも、日本にも、私には暖かい家族がいる。

 数年前、違うホストファミリーの世話になったときにも似た経験をした。
 しかし、私が体験したアメリカと日本の家族の決定的な違いと云えば、もしかしたら兄妹関係かもしれない。

 そんな気がする。
 と云っても、私と妹は寧ろ仲のいい方だと思いたい。
 でも、どうして朝から夜まで一日中同じ環境で過ごしているのに、お互いに何も口を利かないのだろう。

 深く理解しあっている故に、言葉にするまでもないと思っているのだと解釈すれば、返ってそのままで良いじゃないかと自分に言い聞かせる。
 僅かな優越感と共に。

 やはり、妹との繋がりを誇りに思いたいかもしれない。
 けれど、どの関係にも確かめ合うことが必要である。
 言葉を使わなければ、相手も自分も不安になる一方なのは言うまでもない。

 奇麗事や立派な言葉でなくてもいい。
 簡単な言葉でも充分なら、私がアメリカで足りないと感じるものは、もしかしたらただの挨拶なのかもしれない。
 よく考えると、アメリカでは「挨拶」自体、概念として存在していないのではないかと思う。

 「おはよう」のような言葉はもちろん誰もが知っているが、「決まり文句」といった方がもっと的確だろう。
 云いたくなかったら、云わなくて済むにこしたことはないのだ。

 日本では、面識がない人と挨拶を交わすことはよくあるが、アメリカでそういうことは稀にしか起こらない。
 機嫌が良い時、云うことをちゃんと憶えている時は、友人や家族に向かって「おはよう」と唇から自然に毀れることもある。
 しかし、基本的に、アメリカの挨拶は日本の挨拶には到底及ばない。

 古い伝統を守ろうという意識も欠落しているからだ。
 では、なぜ日本人は挨拶をこれほど大切にするのだろう。
 一日の中で、様々な場面で交わす挨拶。

 言いたい気分じゃなくても、言いたい相手じゃなくても、言うべきこの挨拶。
 機嫌がいい時でも悪い時でも云う、この挨拶。
 決まり文句?しかし、時が経つのに連れて、不本意にボソッと云った言葉は真実へと変わる。

 日本にいるアメリカ人として、これを意識せざるをえない。
 疲れて、夕空の下を歩き、眠ることしか頭にない私でも、子供の明るい「おかえり」という声を聞いたら、答えずにはいられない。
 答えることだけで一瞬疲れが吹っ飛んでしまう。

 そんなことに気づき始めた時、学校で習った「言霊」という言葉を思い出した。
 言霊は日本の外側ではあまり知られていない文化の一部でありながら、この良く知られている挨拶との間に興味深い因果関係がある。

 簡潔に云うとしたら、言霊は言葉の力。
 心を込めたい日も心を込められない日も、好きな人にも苦手な人にも、挨拶を毎日云うとその有り触れた言葉に、知らず知らずに力が宿るようになるという。

 アメリカで「いってきます」を伝えたことは一度もなかった。
 日本で口にする度、ああ、誰かが私を念じて待っているということがはっきりとわかる。
 それに対して、安心にも畏怖にも近いなにかを心にピリピリと感じる。

 「いただきます」と言うだけで、感謝の気持ちを覚える。
 私と妹が挨拶をするように教えられていたら、今人として、姉妹としてどうなっていたかと考える。

 子供の頃の記憶は掛け替えのない思い出で溢れている。だから、過去を変えたくはない。
 でも、アメリカへ帰ったら、言ってみよう。
 「ただいま。」家を出る時、言ってみる。

 「行ってきます」と。
 そんな風にちゃんと挨拶をしようと心に誓った。

 ちょっと変と思われるかもしれない。

 必要ない言葉で時間を無駄に費やしていると思われると考えられなくもない。
 でも聞きたい答えが返ってくるかもしれない。
 「おかえりなさい」と。

 空気、空、雨の音、そよ風の味、蛍のように光る遠い自転車のライト、微笑み、川辺の匂い、揺り篭を連想させる電車の揺れる様。
 持ち帰れないものは山程ある。

 けど持って帰れる確かな宝物があるとしたら、それは、挨拶だ。
 挨拶は何より強くて頼もしい。

 幸せな人間関係を作ってくれる鍵。
 「ただいま〜!」

 ご静聴、心より感謝いたします。





□まとめ、感想など

 
「挨拶」とは、幸せな人間関係を作ってくれる鍵…。
 改めて、「言葉」の価値を見直させてくれるような文章だと思う。

 言霊(ことだま)というような言葉をつかっているが、よくそこまで理解ができたなぁと感じる。
 冒頭で書いたように、核心は「文化の厚みの差」であろう。

 数千年にも渡って異民族からの侵略を受けす、同じ言語を使い続けることで達しえた人間関係をスムーズにするためのノウハウといえるのかもしれない。