■零戦と戦艦大和  
…日本の技術史における意味


□画像はウィキペディアから。


□日本の技術というものを考える上で、先の大戦での零戦と戦艦大和というものは欠かすことのできないアイテムであろう。

 総合誌b で、この技術というもの、そしてそれが戦争というものをどう変革したか…結果として、日本人へどのような影響を与えたか--と記事になっていた。

 筆者は、別に戦争をどうこう考えているわけではない。

 ただ、民族というものがそれこそ、全力で戦うときどのような力が出るのか--そのあたりを知りたい。
 
 以下、記事の気になる部分を抜書きし、筆者の感想などを付記していきたい。



■まず、戦後、どのようであったかということから抜書する。

□大和を建造した大型設備は戦後も健在で、46cm砲の製造に使われた工作機械は、大型船のクランク軸を製造できた。

 ⇒技術の蓄積と継承があったために、昭和31年には、戦後10年あまりで造船量世界一となった。

 →全長15m、世界最大最高性能の測距儀を作ったニコンは、戦後、カメラのレンズで世界的な評価をえる。
 解像度の実験でも、ライカ、ツァィスに負けない高性能が実証された。



□零戦の技術は、どのような影響を与えたか。 
 戦後の一時期、航空の研究が禁止されたため、航空機の世界から自動車産業に飛び込んだ技術者は少なくない。

 ⇒ホンダのNさん。中島飛行機から陸軍の航空技術研究所に入り、爆撃機・富嶽の五千馬力エンジンや戦闘機・火龍のジェットエンジンの開発に加わった。
 戦後、ホンダで四輪の開発責任者を務めた。

 →ドイツでジェット機が飛んだというので開発を始めた。しかし、頼りはドイツ駐在武官のノートと、エンジンの断面図を写したピンボケのマイクロフィルムだけ。
 あとは自分の頭で考えるしかなかった。

 →Nさん達が戦後、画期的な業績をあげた理由のひとつは、情報が遮断されていたため、自前でアイデアを出す力が鍛えられたのではないか。

 新幹線の開発にも、旧軍の技術者たちが大量に参加している。


□戦時中の技術が、戦後、直接に活用されたケースはそれほど多くない。

 むしろ、軍事研究で培われたノウハウや、そこで育った人材の方が重要だったのではないか。
 そんな人材が既成概念にとらわれないでチャレンジしていった精神そのものが大和などの最大の遺産だった。

 零戦と大和があったおかげで戦後の日本人がどれくらい勇気づけられているか、はかりしれません。
 ものづくりの精神は、無形の神話に支えられるのです。

 どんなジャンルであれ、世界一のものを作り上げたという記憶をもっている国はそう多くはありません。
 大和・零戦は日本国民が誇るべき歴史的な記憶だと思います。

 優秀な技術も、それを運用する総合的な力がなくては役に立たないという教訓とともに後世に伝えたい。




■戻って、まず、戦艦大和と零戦について大雑把に押さえてみよう。

□零戦と大和を論じることは、戦争におけるテクノロジーと戦略の関係、戦後の「ものづくり大国」に至るまでの苦難の道程、つまり、
我々日本人の強さと弱さを検証することでもある。




■戦艦大和について

・最大の特徴は、世界最大の46センチ砲。
 この主砲を9門そろえ、1発約1.5トンの砲弾を、最大4万2千メートルまでとばすことができ、3万メートル離れても、厚さ42センチの甲板を撃ち抜ける。
 砲弾の大きさ、射程距離の長さも世界一。

・2760トンもある砲塔が、毎秒2度の角度で旋回し、毎秒10度、砲身の角度を変えることができて、約40秒ごとに砲弾を発射することができた。

 距離を精確に測る装置も必要 → 15メートルの長さをもつ測距儀(光学式距離測定装置)
 →この測距儀を開発したのが日本光学(ニコン)。

 これだけの巨大な装備を持ちながら、大和はスマート。
 →デザイン的にぎりぎりまでシンプルに設計され、きわめてコンパクト。

 しかし、
 カタログ上の性能にたよりすぎ、実用性が問われていない。 → 大和の主砲はほとんど敵艦に命中しなかった。

 日本の工業技術の限界を感ずるのは主機(エンジン)。
 27ノットまで出せないのは、disadvantage 。



■零戦について

 零戦の登場は、昭和15年。
 呼ばれる理由は、昭和15年が皇紀2600年に当たるため。
 →まず、中国戦線に投入されるが、昭和17年初めまで、向かうところ敵なし。

・あの時期において、文句なく世界最高の戦闘機だと思う。

坂井三郎さんは、零戦の長所を聞かれると、第一に航続力を挙げていた。 

 f4ワイルドキャットは1450キロ、メッサーシュミットは700キロにあって、3000キロ以上飛べる零戦は圧倒的。

・大和と零戦に共通しているのは当時の技術の良いところをすべて結集して造られている点。

・プロペラや脚にも、当時の最先端の技術が取り入れられています。
 零戦では回転数に応じて自動的にピッチが変わり、常に最適回転を保つという、恒速プロペラが採用されている。

 初めて脚を引き込み式にした戦闘機で、非常にスマートに処理されている。

 →個々の技術は、英米独などが開発したもので、日本のオリジナルではありません。しかし、それらの先進技術を自分のものとし、純国産機として、世界最高水準のものを作り上げたのは誇っていいことだと思います。


 →そんな凄い兵器を持ちながら、なぜ、敗北したのか、これからみてみよう。



■戦艦大和をつくった時代背景
 …巨砲が必要だったのか、航空機の発展とのタイミング


□大和はどうして造られたのか。

・大和の建造計画が立てられた昭和8年頃は、世界的にみて、大艦巨砲の新戦艦の開発に力を注いだ時期だった。・
 
 →大和は、当時の最先端にキャッチアップし、それを具現化した戦艦だったと思います。

 この時期の新型戦艦には共通したコンセプトがある。
 砲塔の多連装化による集中防御の採用です。

・日本海軍が、巨大戦艦を造ろうと考えるのは、昭和8年ごろのこと。最初からアメリカとの戦いを念頭においたものでした。

 →当時、海軍は、日米の戦艦保有率を6:10と定めた海軍軍縮条約をいずれ脱退するという見通しをもっていた。

 →昭和8年10月、軍司令部の石川信吾が、超巨大戦艦を建造するという「次期軍縮対策私見」を提出。


・日露戦争に勝利した後、日本海軍の仮想敵国は一貫してアメリカでした。
 しかし、国力に大きな差があるアメリカと互角になりようがない。

 →それでも、もし、アメリカと戦うことになったとき、どうしたらいいか…と悩み続ける。

 →そこで、
全体としてかなわなくても、直接ぶっつかる正面衝突では負けないものをつくるという発想が生まれた。 
 →その一点豪華主義的な軍備の象徴が、戦艦大和
ではなかったか。


□そのような発想のもとに、アウトレンジ戦略が登場する。

 →アメリカももっていないような巨大戦艦を造り、相手側からの砲弾が届かない長距離(アウトレンジ)から46センチ主砲を撃てば、一隻ですべて撃破できる…と。

 →ところが、現実にはそんな遠くから撃っても当たらない。
 机上の空論なのだが。

 →国防は論理の世界でもある。
 対外的には、ウチに攻めてきたら大変な被害が出ると思わせ、国内的には、これだけの備えがあれば一定の守りができます…と納得させる論理が必要となる。

 →残念に思うのは、大和が徹底した秘密主義で建造されたことです。

 日本はこんな凄い戦艦をつくったぞ、とむしろ積極的にアピールして、アメリカへの抑止力とすべきだった。 
 →これが兵器の使い方として王道なのだ。