■中国と日本は模倣大国 
--中国人にそう言われたが日本人の模倣は意味が違おう



日本も中国も模倣大国だ---と中国人。


■模倣か。
 そう日本人も昭和20年代、30年代モノマネ大国と言われた---たしかに。

 でも、今は言われないなぁ。
 独創性のある民族だというのが、世界での日本人評である。

 中国人ももう半世紀も経てば、独創性のある民族だと言われるかな。

 まず、中国の新聞から見てみよう。


 日本も中国も「模倣大国」だ・・・独自の発明は少ない!=中国メディア (サーチナ)

 中国メディア騰訊財経は、中国経済の成長率が鈍化しつつあるなか、製造業の高度化を叫ぶ声が高まっていると伝える一方、中国の製造業は「今のままで良い」と主張した。

 記事は、米アップルの「iPhone」のほか、ドイツのベンツやBMWの自動車は中国で生産しているとし、「世界の一流ブランドにも“中国製”は ある」と主張し、中国の製造業は実際のところは「高度化」が必要ないほど高度化していると論じた。

 中国の製造業にとって必要なのは高度化ではなく、世界の産業チェーンにおいて「末端」から「先端」にポジションを調整することだと主張し、中国では工業のデジタル化や 技術革新を意味する「中国工業4.0(インダストリー4.0)」構想が存在することを紹介する一方、「実現できるかは疑問」と主張。

 さらに理由として、「技術革新は政府が資金を提供すれば実現できるものではないため」と指摘し、技術革新は科学的な研究という基礎のもとに成り立つものであり、中国は科学研究で 他国に遅れを取っているのが現状だと。

 また、中国では知的財産権の保護が不十分だとし、制度的な問題から技術革新が第三者に盗まれる可能性もあるとの見方を示した。

 続けてスイスの時計産業を例に「時計はハイテク製品とは呼べないものの、スイスの時計は間違いなく最高品質」と指摘する一方、スイスの時計のように「飽くなき探究心のもとで品質を高め続けることも中国製造業が目指すべき方向ではない」と主張。

 さらに、中国製造業が目指すべき方向性は「模倣」だと主張し、テレビは日本によって改善されたが、結局は 中国が生産大国になろうとしていると指摘し、「日本も中国もオリジナルの発明が少ない点から見れば模倣大国だ」と主張。

 また、日本人は模倣した製品の品質を高め、改善を加えることで「世界から模倣している」とは批判されないと伝え、「模倣であっても極致まで改善することで模倣でなくなる」と主張する一方で、 市場には粗悪な製品を必要としている人もいると指摘。

 すべての消費者がスイスの時計のような高品質な時計を求めているわけではなく、質の劣る海賊品で満足する消費者もいると伝え、「中国の製造業はむしろ今までのままで良い」と論じた。



■補足、感想など

 こりゃなんのことかという中国人の結論である。
 いや、それでいいと思うのなら、それは中国人の判断であり、それで生き残れれば、中国人の判断は正しいことになろう。

 大切なことは、「このままで生き残れるのか?」とぃうことだ。
 人件費は上がり、他国との差がない、でも、技術レベルは一向に上がらないという話であろう。
 それで、本当に生き残れるのか。
 中国人は、未だに、まともな「エンジン」さえも作れまい。

 日本人を例に上げられていたが、日本人からすれば、不愉快な話ではある。
 確かに、日本人も模倣から始める。
 でも、模倣 → 独創 までの「進み方のノウハウ」が歴史的に蓄積されている。
 日本の場合、それを「守破離(しゅはり)」と言う。

 少し、守破離を紹介しておこう。

--ここから--


 守・破・離
 仏教では習。絶・真ともいい、あらゆる道の修行における順序段階を教えている。

・守―教えを守り私意をさしはさむことなく、ひたすら基本を身につける段階である。
 書道の楷書にあたるもので、一点一画をゆるがせにしない心配りが大切である。

・破(は)―守の殻を破り躍進する時代である。
 いままでの教えを基礎とし、中核として、自己の知能や個性を発揮して次第に自己の剣道を創造する時代で書道の行書にあたる領域である。

・離(り)―孔子の七十にして矩(のり)を超えずの境地であり、あらゆる修行の結果我が思いのままに行動して、いささかも規矩にはずれることなく、一つの形や流儀流派にとらわれることもなく、自由闊達に自己の剣風を発揮できる時代である。書道の草書の位である。


--ここまで--

 要するに、真似するというか模倣するにも、模倣する理屈というか、道筋があるということだ。
 こういうものが、歴史から生み出された「文化」なのだ。

 中国人の四千年とやらの歴史では、「守破離」という概念すらも生み出すことができなかったのか。
 いや、一旦、生み出せても数百年毎に起こる、「文化大革命」のようなもので雲散霧消してしまうのだろうな。

 中国の歴史は、混乱と逃散の歴史だものなぁ。

 たかが真似、たかが模倣ではあるが、その真似なり模倣なりを「独創」までもっていくには、積み重ねた歴史とそこから生み出される文化というものが必要だということか。