■デミング
  …デミング賞の背景にあるもの



□はじめに

 デミング賞というのは、日本で品質管理で傑出した企業、人に与えられる賞だ。

 
先日、ディビッド・ハルバースタムという人の書いた「覇者の驕り」という本を読んでいると、日本とデミングという学者の出会いの部分が書いてあった。

 デミングは日本でこそ高名だが、アメリカでは殆ど無名だった人だ。

 なぜなのだろう。

 そこに、日本人とアメリカ人という民族の違いが、モノを造るということに対する明確な考え方の違いとしてあらわれている。

 デミングが品質管理について、日本の経営者に説いたのは1950年頃だった。

 それから、半世紀以上がたっても、日米の違いの差が近づいたとは考えられない。





□まず、デミングという人について、Wikipedia で検索し、概略をざっとおさらいしよう。

 ウィリアム・エドワーズ・デミング(英: William Edwards Deming、
 1900年10月14日 - 1993年12月20日)

 アメリカ合衆国の統計学者、大学教授、著述家、講演者、コンサルタントである。

 第二次世界大戦時にアメリカの生産性向上に尽力したが、それよりも日本で行った業績でよく知られている。

 彼は1950年から日本の企業経営者に、設計/製品品質/製品検査/販売などを強化する方法を伝授していった。

 彼が伝授した方法は、分散分析や仮説検定といった統計学的手法の応用などである。

 デミングは、日本がイノベーティブな高品質製品を製造し経済力を高めるのに多大な貢献をした。

 日本の製造業やビジネスに最も影響を与えた外国人であった。

 このため、日本では以前から英雄的な捉え方をされていたが、アメリカでの認知は彼が死去したころやっと広まり始めたところであった。



□生い立ち
 スーシティ生まれ。1921年、ワイオミング大学で電気工学の学士号を取得、 1925年、コロラド大学ボルダー校で物理学と数学の修士号、1928年、イェール大学で物理学と数学の博士号を取得した。

 イェール大学在学中にベル研究所のインターンシップを獲得。卒業後、米農務省および国勢調査部門で働く。

 ダグラス・マッカーサー将軍の下で日本政府の国勢調査コンサルタントを務め、統計的プロセス管理手法を日本の企業経営者に教えた。

 その後も何度も日本に赴き、助言を与えると共に、ベル研究所でウォルター・A・シューハートから学んだ技法を適用した結果である経済成長の様子を観察した。

 後にニューヨーク大学の教授となり、同時に米政府の個人コンサルタントとなった。



□日本での業績
 第二次世界大戦後(1947年)、デミングは1951年の日本での国勢調査の計画立案に関わった。

 デミングは軍から現地での国勢調査の支援を依頼された。

 彼が日本にいた頃、社会への関与や品質管理技術の専門知識などもあって、日本科学技術連盟 から招待されることになった。

 日科技連のメンバーはシューハートの技法を学んでおり、日本の復興のために統計的制御の専門家の教えが必要と考えていた。

 1950年6月から8月にかけて、デミングは数百名の技術者、マネージャ、学者に統計的プロセス制御と品質の概念の講義を行った。

 また、少なくとも1回は企業経営者向けの講義を行っている。

 デミングが企業経営者に伝えたことは、品質の向上によって支出が減り、生産性と市場シェアが向上するということであった。

 最も有名な講演は1950年8月に箱根で行われた「経営者のための品質管理講習会1日コース」である。

 日本の製造業者はデミングの技法を広く適用し、これまでにない品質と生産性の向上を達成した。
 品質向上とそれに伴うコスト削減により、日本製品が世界を席捲することとなった。

 1950年の講演は本としても発売されたが、デミングはその印税の受け取りを辞退した。
 そこで日科技連はデミングの友情と業績を永く記念するため、その印税を基金とし、デミング賞を創設した。

 1960年、日本の産業再生と世界的な成功への貢献に対して、デミングは瑞宝章を授与された。



■以上が、デミング氏の業績の概略である。

 デミング賞という賞の資金的なバックアップも、デミング氏の著書の印税に支えられているのだ。

 なんというか、おんぶにだっこ…というお世話のなり方だと思う。



 上の画像は、1950年(昭和25年)頃の講演の様子である。
 どんな場所で講演していたのか、分かる。



■ハルバースタムと言う人の書いた「覇者の驕り」から、日本人がこのデミングという人にであった部分を抜書きしてみよう。


□まず、この頃(敗戦直後から昭和30年頃にかけて…)の日本人の様子、アメリカ人の様子を抜書きしよう。

§日本の生産性視察団がアメリカに上陸、アメリカの工場を余すところなく視察して回った。

 彼等はいつも団体で来た。それを見たアメリカ人の目には、日本人はまさに滑稽な小男たちを写った。

 彼等はみんな同じくらいの背丈で、同じような紺の背広を着ており、首から同じカメラをぶら下げていた。

 彼等は周りのもの全てを測り、写真にとり、スケッチをし、できるものは何でも録音した。彼等の質問は細かく的確だった。


§本当のところは、どんなことについても、ある種の見下した気持ちがアメリカ人の中にあったからこそのことだった。 

 アメリカ人がオープンになれたのは、実は彼らのだれ一人として、この背の低いアジア人をまともに考えていなかったからだ。
 偏見をもっていたからこそ、彼らは寛大になれたのである。



□エドワード・デミングという個人はどのような人であったのだろう。

§デミングについて日本人が抱いている数々の好意の一つに、彼が非常に質素にくらしていることがあった。

 彼らにしてみれば最も重要であるはずの人物が住んでいるのは、ごく普通の家だった。

 家具は質素で、照明はむしろ足りないほどだし、何かカビ臭い感じがした。
 それが、余計に彼らを感動させた。

 デミングの情熱は、よりよい製品をつくること、もっと正確にいえば、よりよい製品をつくるためのシステムを創造していくことにあった。
 彼は明らかに、物質的なことにはほとんど興味をもっていなかった。

 彼こそ、日本人がいつも耳にしていた類のアメリカ人、すなわち、物質的ではなくて精神的なアメリカ人だったのである。


§エドワードデミングは優しくて礼儀正しい男で、戦後の貧困から極度にギスギスしていた日本人に理解を示したとしても、自国のアメリカ人に対してはつっけんどんで軽蔑的ですらあった。

 浪費を嫌うデミングは、アメリカが浪費の多い国になってきたと感じていた。
 アメリカは豊富な天然資源を無駄にしているだけではなく、人材をも無駄にしていると思った。

 アメリカは、自らにふんだんに与えられた恵みを、まさに湯水のごとく浪費している国であると信じていた。

 彼はアメリカ人の経営者を軽蔑しており、アメリカの苦悩のほとんどは彼らに責任があるとすら考えていた。

 彼はよく聴衆に向かって、この国が絶対にしてはならないことは、この国の管理職階層の人間を輸出することである…決してそうしてはならないと好んで語った。

 彼は愚かな人間には我慢がならず(彼はアメリカ人経営者のほとんどは愚かだと思っていた)、特に、彼の理論に関心を持っているふりをしながら、自分のやり方を変えるつもりなど毛頭ない者に対しては我慢がならないと感じていた。


□デミングはその生涯を通じて、アメリカではほとんど知られることなく、自分の国では名誉なき預言者にとどまった。

 しかし、一方で、かれは
第二次産業革命、すなわち西洋に対する東アジアの挑戦においては、最も重要な人物の一人となったのである。

 彼は日本人に対し、日本の最も優れて資源、すなわち人的資源を、最大限に活用できるシステムを授けたということで、他の誰よりも大きな貢献を果たした。

 品質を管理するために彼が教えたのは、数学的思考から割り出した一連の実務訓練で、日本人の気風、伝統にあった集団参加という方法がとられた。





□日本人とデミングはどのように出会ったのか。

§アメリカ政府の国勢調査局に統計学者として非難場所を、見つけた。

 1948年、国勢調査局は彼を日本へ送り込んだ。日本の国勢調査の能力向上を助けるのがその目的であった。

 東京にいた間、彼はシューハートの研究や、デミングがシューハートの弟子であることを知っている日本人の技術者の何人かに出会った。

 デミングは、こうした日本人の技術者たちが、実際にシューハートの本を自分達で翻訳し、それを手書きで写していたことを知って感動した。

 それでもみんなシューハートの言わんとしていたことを驚くほどよく理解しえおり、それを日本に適用できるかもしれないと考えていた。

 1950年、デミングは数人の日本人の友人に、日本で品質管理の講義をしてくれと依頼された。

 彼は引き受けはしてものの、一抹の不安は拭いきれなかった。

 彼は、アメリカで起きたのと同じようなことが日本でも繰り返されるのではないかという恐れにも似た予感に悩まされた。

 45人の日本のトップ経営者に対し、著名なアメリカ人による品質管理の講演会があるのでぜひ聞きにくるよう電報を打っていた。
 45人が全員出席し、デミングは自分の使命が再開したのを感じた。

 こうした人々はみんな追い詰められており、デミングに頼る以外に、他に行き場がなかった。

 デミングは、自分のいうとおりにやれば、5年以内には西洋に十分対抗できるようになると話した。

 デミングの最初の講義のあと、2.3月して、その講義に社長が出席していたという電線会社は、生産性が30%上がったと報告。

 そして、数月のうちに、他の企業も似たような生産性向上の成果を報告してきた。

 それまで無視されることに慣れていたデミングは、ここで始めて恐るべき何かに触れたという気がした。

 この国のだれもが、上から下まで同じ目的をもっているという事実がデミングを圧倒した。

 日本の労働者は、善良で、持久力があり、勤勉、そしてかつ純真であった。
 しかも数学的技能を必要とするデミング方式にはぴったりだった。

 ごく普通の労働者でさえ、驚くほご基礎数学に長けていた。
 そして日本人の経営者たちは、ほとんど病的とも言えるほど正しいことを行なうことに熱意を燃やした。

 中でも、とりわけ彼が重要だと感じていたのは、アメリカ人が基礎から離れていくいっぽうで、日本人は進んで基礎をしっかりやろうとしていることだ。

 この一人の専門家が、アメリカはどうやって戦争に勝ったのか、その内なる秘密を解き明かしているかのようだった。

 日本人にしてみれば、デミングはこの貴重な秘密を教えてくれているのだった。

 デミングはほとんど毎年のように、講演を行なうために日本に戻ってきた。

 日本ではそのセミナーに参加できるということが、一つの大きなステータスにまでなってきた。

 日本人の生活が苦しい時代に来日しながらも、デミングは決して日本人を見下した振る舞いはしなかった。

 他のアメリカ人たちとは違い、日本人を見たとき、彼らの貧困ではなくその目的意識に注目した。

 アメリカ人が豊かで逞しく、いっぽう、日本人は弱くて傷つきやすかったこの時代に、彼は多くのアメリカ人と違って、決して日本人に劣等感を抱かせなかった。

 それどころか、彼は心底から彼らに自信を与えた。

 この優秀なアメリカ人の専門家が、日本人をこれほどまで信じたのだ。
 日本人が自分自身を信じ始めることができたのも当然だろう。



□まとめ

 
長い抜書きとなった。

 上記のように、デミングは最初は品質管理を教えにきた訳ではない。

 日本の国勢調査の方法を手伝いにきたのだ。

 それを日本人から、品質管理を教えて欲しい…とデミングに依頼したところからすべて始った。

 
そこに、なにか不思議な縁(えにし)というものを感ぜずにはおられない。

  デミングという人は求道者(ぐどうしゃ)のようなタイプなのであろう。

  昭和25年というタイミングで、よく日本人はデミングという人に出会ったものだ。

  幸運を感ぜずにはおられない。


 
それでも、幸運が向こうから勝手にやってきたのではあるまい。

  日本人の性向とか、教育の普及、そしていいものを作らずには生きていけないという切羽詰った欲求が、幸運を招き寄せたに違いない。







□最後に

 1980年頃、アメリカでデミングという人への再評価が起こった。

 その頃の話が残っている。

--ここから--

 
日本製品の高品質の原因を究明すべく、多くのアメリカ人の使節団が日本へ派遣された。
 彼等は政府、学校、会社、中でも、工場等を見学した。

 ところが、どの工場にいってもデミングというアメリカ人の名前を聞かされ、探してみたところ、ワシントンdcに住んでいてニューヨーク大学に週1回統計学を教えるために飛行機でニューヨークへ通っている統計学者が、その人であるという事を突き止めた。


 
(1980年頃、デミングがどのように遇されていたか分かる)

--ここまで--

 それは、日本の工業製品の成功とそれを日本人へもたらした秘密をデミングという人がもっているというような考えだったからだ。

 以後、アメリカで20万人の人が品質管理の講習を受けたという。

 しかしながら、このこ難しい品質管理の理論はアメリカ人には合わなかったようだ。
 わずかな成功例が、フォードなのだという。

 こうしてみると、デミングという人は生まれ故郷であるアメリカでは、生涯不遇というか彼の本来もつ能力に応じた待遇を受けずじまいのままなくなった。

 日本人とデミングとのあまりにも偶然の邂逅というものが、日本人に精密な工業製品をつくる…という技術というか能力を授けてくれた。

 日本人は、これからもデミングという人へ感謝しつづけていくべきであろう。