■ミケランジェロ…… ピエタ



□上掲の画像の説明

 1498-99 大理石 174×195cm  サンピエトロ寺院


□今、年代を書きながら思ったが、この像をあの支倉常長(はせくらつねなが)も見ている訳か。
 支倉はどう感じたのだろう。

 
支倉常長は、1500年代末に伊達政宗に命令されてローマ法王に謁見して帰国したが、帰国してからは殆ど活躍する時間もなく亡くなった。

 大航海時代に数少ない日本からヨーロッパへの旅行者なのだが、天正の少年使節などと同じで、後半生がパッとしない。

 なぜなのだろう。
 大航海時代に、西欧文明を見るということは当時の日本人には衝撃が大き過ぎたのかもしれない。

 


§話を戻して

□ピエタ…として有名だが、一応説明しておきたい。

 聖母マリアが、十字架から降ろしたキリストの亡骸(なきがら)を抱きかかえる瞬間を現したものである。画像は新聞からとったものでよくない。





□まず、ミケランジェロについて、Wikipedia でざっとおさらいしてみよう。

 
ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico BuonarrotiSimoni, 1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリアルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。名前はミカエル(Michael)と天使(angelo)を併せたもの。

 西洋で最も巨大な絵画の一つとも言われるバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画や『最後の審判』、パオリーナ礼拝堂にある『聖ペテロの磔刑』、『パウロの改宗』を描いたことでよく知られている。

 もともとは彫刻家であり、『ピエタ』や『ダビデ像』等の傑作のほかにも『バッカス』、『モーセ』、『ラケル』、『レア』などが有名である。バチカンの『サン・ピエトロ大聖堂』の設計者でもある。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティとともにルネサンスの三大巨匠と呼ばれる。

 ミケランジェロは長命であり、作品も盛期ルネサンスの時代から、マニエリスムの時代への移り変わりを示している。また躍動的な表現は、次のバロックの時代を準備したといわれる。



⇒画像もあったので、添付したい。






□まとめ、感想など

 筆者は、バチカン市国を訪れたとき、実物をみたことがある。
 片隅においてあるのだが、どうも暗いせいであまり印象にはない。

 別に柵でかこってある訳でもなく、近寄ってみることができる。

 ⇒これは、ピエタという像の印象よりも、ミケランジェロという個人のいろんなエピソードのほうが余程面白い。



□以下、Wikipedia に書いてあった文章を転記したい。

§同時代の人の数々の証言から、かっとなりやすい性格だったことがうかがえる。
 その性格のため若い頃はけんかも多く、あるとき顔を殴られて鼻が曲がってしまった。このためもあって容姿に劣等感を持ち、さらに気難しい性格になってしまった。

§仕事に取り掛かるのは遅いが、いざ始めると周囲が驚くほどの速度で仕上げたといわれる。

§彫刻の題材をどうやって決めるかをたずねられた際、「考えたこともない。素材が命じるままに彫るだけだ」と答えた。

§サン・ピエトロのピエタ制作時、当時の枢機卿から「マリアの姿が若過ぎる」と批判を受けたが、それに対し、「罪ある人間は歳をとるが、無原罪の聖母は常人のようには歳をとらないのだ」と答えている。
 
§システィナ礼拝堂の天井画の製作は大変な重労働であった。上を向いて首を曲げた格好で製作を続けたため首の骨が曲がり、滴る絵の具が目に落ちて視力を損なってしまったという。

§異常なまでにダ・ヴィンチを嫌っていた。

 同じ絵に一緒に描かれるのも嫌だったらしく、ラファエロの代表作『アテナイの学堂』にアリストテレス(ミケランジェロ)とプラトン(ダ・ヴィンチ)が並んで描かれているのを知ると、激怒して自分をモデルにした人物をプラトンから遠ざけるように描き加えたという。

 貴族的な生活をして「万能の天才」と名声が高かったダ・ヴィンチと、庶民的で頑固な努力家だったミケランジェロでは、気が合わなくて当然とも言える。


 ⇒ふ〜ん、ダヴィンチが嫌いだったのか。
  貴族的だから…というより、両雄並び立たずという気がするが。

  才能に溢れる人間が、同様にまぶしいほどの才能を嫌っていたということだろう。



□蛇足

 ミケランジェロを説明するとなると、ダビデ像を抜かすわけにはいくまい。

 



□ダヴィデ像について、記事となっていた。ご紹介したい。




 
いきなり足から彫り出した…ということか。

  こういう天才達の才能は測り知れないなぁ