■大達磨(おおだるま) …白隠慧鶴(はくいんえかく)



■どのあたりから。

 まず、新聞の切り抜きをお見せしたい。





□記事にある禅僧による書画と抽象画を比較している文章をかきうつしてみよう。

 ⇒
抽象画の「線」は、人間の身体運動の痕跡。かたや禅僧の書画は悟りを字や絵にしようとする、精神の痕跡と言える。  …と。

  う〜ん、精神の痕跡か。そうだろうなぁ、と思う。




□冒頭の書画について、説明すると

  大達磨(おおだるま) …白隠慧鶴(はくいん えかく)



 ⇒この白隠 というお坊様はどんな人なのだろう。
  Wikipedia から引き写そう。


 白隠 慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日(貞享2年12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である。

 諡は神機独妙禅師、正宗国師。

 五百年に一人の名僧とまで言われ「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山と原の白隠」などと謳われた。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて悟りを開くも満足せず、修行を続け、のちに病となるも、内観法を授かって回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。

 以後は地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで歌われた。

 現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。

 現在、墓は原の松蔭寺にあって、県指定史跡となり、彼の描いた禅画も多数保存されている。


* 1685年 駿河の原宿で生誕。

* 1700年 地元の松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家する。沼津の大聖寺息道に師事する。

* 1703年 清水の禅叢寺の僧堂に掛錫するが、禅に失望し詩文に耽る。雲棲?宏の『禅関策進』によって修行に開眼、諸国を遊方する。
 美濃(岐阜県)の瑞雲寺で修行。

* 1708年 越後(新潟県)高田の英巌寺性徹のもとで「趙州無字」の公案によって開悟。その後、信州(長野県)飯山の道鏡慧端(正受老人)のもとで大悟、嗣法となる。

* 1710年 京都の北白川で白幽子という仙人に内観法を学び、禅病が完治する。

* 1716年 諸方の遊歴より、松蔭寺に帰郷。

* 1763年 三島(静岡県)の竜沢寺を中興開山。

* 1768年 松蔭寺にて示寂。


 彼は初めて悟りの後の修行の重要性を説き、生涯に三六回の悟りを開いたと自称した。
 また、これまでの語録を再編して公案を洗練させ、体系化した。

 中でも自らの悟りの機縁となった「隻手音声」と「趙州無字」の問いを、公案の第一に位置づけ、以後の修行者に必ず参究するようにさせた。


 ⇒五百年に一度の名僧といわれた人なのか。



□まとめ、感想など

 まず、こういう禅僧による書画というものはおそらく日本でしかその価値を認められないだろう。

 普遍性がない…と言える。

 同じような精神風土、共通の歴史的記憶をもっていないところでは、その価値を理解することができないのだ。

 でもまぁ、と思う。
 筆者なら、外国の人がどう思おうと構わない。筆者には、十分に価値があるものだから