■鑑真和上坐像



■先日、新聞記事で鑑真和上坐像の写真と記事がでていた。

 上掲の画像はその新聞からとったものであまり質はよくない。
 しかし、それでもつくった人の思いのようなものがつたわってくる。

 まず、新聞記事を抜書きしながらご紹介して、最後に筆者の感想のようなものを述べたい。


■新聞記事から


 
果たして鑑真は入滅する。76歳。
 戒律を広めるため中国から来朝して9年後のことだった。

 ただ、死後、間もなく作られた像なのは間違いない。…身近に接した人間にしか出せない真実味があるからだ。

 えらのはった顔、がっしりした肩、目を閉じているのは瞑想のためか、苦労の末の失明のせいか。

 造形には過度に理想化された跡がない。
 むしろ在りし日の様子をできるだけ忠実にとどめようという意思が感じられる。

 結跏趺坐のポーズは、日頃から鑑真がこのまま息絶えたいと願っている修行の姿であり、実際にその姿で臨終を迎えたという。

 仏師の名は伝わっておらず、名を残すほどの人物ではなかったかもしれない。
 だが、…「作りの上手、下手は関係ない。和上を思う弟子達の思いが、像に思わず頭を下げてしまうほどの力を与え、傑作たらしめている」と。

 「唐招提寺展」では、像を厨子から出して公開している。

 「私たち坊さんが四の五の言うより、像を見れば鑑真和上の教えは一目でわかると思ったからです」…と。





■筆者の感想

 もう少し説明を。
 国宝、奈良時代、8世紀、脱活乾漆造、彩色、高さ80.1センチ

 どのあたりから…。

 造った人の名前は残っていない…という。名工がつくったのではないということだろう。

 しかし、鑑真和上という人に対する尊敬の思いが乗り移り、これだけの像を作らしめた。

 当然、テクニックは必要だろう。しかし、それだけではいい物を作ることができない…ということをこの事実は如実に示している。

 人を動かすには、まず、自分が感動しなければならない。
 自分に熱い思いがなくてはならない。
 そんなことではないのか。

 それにしても、1200年という時を越えて、なお、人のこころに響くとは…その価値の不変さに驚いてしまう。

 鑑真は、中国では殆ど知られていない人なのだ…という。

 まぁ、8世紀という時期でもあるし、中国の場合、征服王朝だから支配者となる民族すら異なり、歴史の記憶をうまく引き継ぐことができないのだろう。
 
 →その辺りに次の国がひとつ前の歴史書を作るという慣わしができた由縁があるのだろう。

 それはともかくとして、日本への渡航の苦労は、井上靖さんの「天平の甍(いらか)」に詳しい。

 小説では淡々と流れるような書き方になっているが、海南島付近に流されたこともあった筈。

 当時の交通の事情を考えれば、どれだけの苦難か。

 鑑真は当時の中国では高僧であり、弟子を日本へ派遣すればいいことであろうが、自らが伝えよう…という意思がここまでの偉業をなさしめた。

 
体力と気力に溢れたものだけが何事かをなしえる…そういう時代であったのだろう。



□2009.5月
 鑑真和上の目について、記事があった。ご紹介したい。

 
国内に正しい戒律を伝え、唐招提寺を開いた鑑真和上(688―763年)。

 盲目とする定説について、奈良国立博物館が「渡来した時は見えていた」との見解を、同館で開催中の 「国宝鑑真和上展」で披露した。

 展示物に和上の姿を追った。

 和上の姿を伝える資料で最もよく知られているのが国宝、鑑真和上坐像。
 亡くなる直前に弟子たちが制作した像で、禅定印を組んで瞑想する姿だ。

 目は固く閉じられているが、渡来から入寂まで10年近くあり、到着時の様子と同じとは言えない。

 一方、鎌倉時代の伝記絵「東征伝絵巻」には、目をはっきり開いた鑑真和上が描かれている。

 難破して洋上に漂う姿はもちろん、渡来後の描写にも不自由さは感じられない。

 失明を記した「唐大和上東征伝」(奈良時代)について、「文学的要素が多く、100パーセント事実か考える必要がある」と話す。

 注目するのが正倉院に伝わる「鑑真奉請経巻状」。
 渡来の年、東大寺の良弁僧正に経典の借用を申し入れた書状で署名がある。

 部長は
(1)弟子の代筆
(2)見えないが書けた
(3)目が見えていた

 ―の三つで可能性を検討した。

(1)の場合、署名が行書の続け書きで日付の方が大きく「鑑真の署名に何の思いも入っていない。カリスマ的指導者の名前をこれほど軽やかに書けない」と話す。

(2)は、「部」の最終角の長さが余白に応じて異なり、四行目の「部」はいったん筆を上げて書き直している。
見えなければ困難な書き方で、可能性はないという。

華厳経を「厳経」と略したことなど、いずれも「目が見えていた鑑真和上の自筆」と考えれば説明がつく。

「断定はできないが(1)(2)に比べて可能性はずっと高い。

目が次第に悪くなっていたのは本当だと思うが、完全に失明したのは渡来から6年後、僧綱(そうごう)の任を解かれたころではないか」と話している。




□筆者の感想、まとめなど

 鑑真和上が盲目になったタイミングがいつか…という記事だが、日本に上陸されて当分の間は見えていたのでは…という話は過去、聞いたことがある。

 なんの話だったか。

 かすかに記憶があるのは、仏典を読む際に教を汚さないように、先に硬いペンのようなもので印をする。…その印の仕方で盲目では無理だろうとかいう話ではなかったかなぁ。
 (記憶が定かではなく、間違いかもしれないが…)